十、東向きの宗教、西向きの宗教

『歎異抄講読 異義編(第十一章について)』細川巌師述 より

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 現在の宗教はキリスト教をはじめとしすべてこの二つの中に入るだろう。東向きとは何か、東と言うと日の出る方向、太陽が出る所、その方向を向いている宗教。そこでは、希望と目標と楽園建設というように幸せな世界を作り上げて行く。このように幸せを追求して行く宗教を東向きの宗教と言う。この宗教は元気がいい。希望と明るさ、そして、若々しさ、団結、努力精進、この様なものを強調する。もう一つの宗教は西向きの宗教である。西は日の沈む所、希望というよりも諦観(たいかん)、人生観の確立、全ては如来の御計いであるというさとり、死後の幸福、心の支え、感謝の一生、そのようなものを強調する。

 西向きの宗教の方を浄土門系。東向きの宗教を聖道門系と言う。両者に共通なものは、幸福追求と言うことである。幸せでありたいと言うこと。もう一つは自己肯定、やれば出来るんだ、頑張れば必ず実現する筈だ。叩けよさらば開かれん、求めよさらば与えられんと言うこと。楽観的な所がある。それを自己肯定と言う。

 今これらを教信行証の宗教と言うのである。

 浄土真宗、本願の宗教、親鸞の教えと言うのは東向き、西向きのどちらに属するのかと言うと、どちらにも属さない。違うのである。ここの所がよくわからないと教行信証の教えはわからない。

 浄土真宗とは何なのか、浄土真宗といっても宗教法人の浄土真宗でなしに、念仏成仏これ真宗、選択本願は浄土真宗なり、これが聖人が浄土真宗といわれている内容である。

 「念仏成仏これ真宗」それは和讃にもある。『教行信証』にもある。(一一−一九)「念仏成仏これ真宗、万行諸善これ仮門、権実真仮をわかずして、自然の浄土をえぞしらぬ」。もう一つの方は『末燈抄(まっとうしょう)』にある。(二一−二)

 「浄土宗のなかに真あり仮あり。真というは選択本願なり、仮というは定散二善なり、選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり、浄土真宗は大乗の中の至極なり」真浄土から回向された真実宗教、真宗は東向きではない、また西向きでもない、普通の人は西向きの宗教ではないかと考える。何故かと言うと西方浄土と言うではないか。また二河白道をみても一人の行者があって、西に向いて行くという喩えになっている。しかし西向きではない。第十八願の天地は、「念仏成仏これ真宗」、「選択本願は浄土真宗」である。さきの二つの教は自分の立っている基盤、私の立っている大地はそのままにして、右へ左へ、東へ西へと求めている宗教である。キリスト教では上の方かも知れない。天にまします我らの神と申しますが結局同じことです。自分自身の立っておる大地を問題にしない。大地と言うのは、かつて二河白道の話の時に申したように、この大地は、火の河、水の河である。火の河は険悪、水の河は貪欲、その底に愚痴がある。貪瞋痴が私の立っております大地、すなわち煩悩である。深い我執である。自己中心が大地である。私の貪欲、瞋恚の大地の底に如来の浄土がある。私にはこの火の河、水の河はどうにも出来ない。渡る力がない、その私の上に唯一筋の道が与えられる。これが念仏成仏これ真宗、南無阿弥陀仏の道が如来浄土から与えられて、私はこの道を一歩一歩進んで、私自身の大地を掘り下げながら進む方向をもつ、その宗教を浄土真宗というのである。浄土真宗、親鸞の教というのは、どんなものか日本人は知っておかねばいけない。真宗とキリスト教とは違う、日本の文化の中で世界に誇り得るもの、世界には無いもの、日本で明らかになった仏教、それがこの宗教であり、深い精神文化の根源である。それが親鸞の教である。この人にくらべ得る人は世界に無い。

 仏教の歴史の中にもない。この人の教を全世界の人に伝えねばならないと思う。

 親鸞の教の中心点は、従来は信心正因といわれてきた。法然は念仏為本。選択本願念仏集、南無阿弥陀仏、往生の業には念仏を本と為すといったのが法然上人である。

 法然に対して、親鸞は信心正因、『教行信証』には信の巻を立てて、信心正因を明らかにした。それが親鸞聖人の教の中心点であるというようでありますがこれは不充分である。念仏為本も信心正因も両方とも法然の教であって、これらはいずれも『選択集』の申にある。念仏為本も信心正因もともに『選択集』に出ておる。信心は『選択集』第八章の三心章に、念仏は第二章、二行章にある。親鸞は教行信証を書いて、正信偈をつくった時にそれを入れている。

 「還来生死輪転家、決以疑情為所止、速入寂静無為楽、必以信心為能入」法然上人の章に信心をのせてある。信心と念仏が大事と言われたのは法然上人である。

 親鸞聖人の教の中心は如来回向である。念仏も信心もそして教行信証の全てが如来の回向であると言ったのが親鸞である。だから『教行信証』の初めに、「謹んで浄土真宗を接ずるに二種の回向あり。一つには往相二つには還相なり」とある。ここに聖人の教の中心がある。全ては如来向向であるという所がこの人の教の大事な所である。

 もう一つ言えば方向である。東向きにも非ず西向きにも非ず、自己自身を問題として、深まって行って、遂に如来の世界に往生浄土してゆくという宗教。これが世界に一つしかない宗教である。我々は我々の先祖の中に、そういうことを明らかにした人があったということを知っていなければならない。本当に万人の生きる道を明らかにしてくれた人があったと言うことを忘れてはならない。前を訪らい後を導くということが肝要である。


 近頃は、今まで信頼されていた政治家や大銀行などまでも信用を失うような事件を次々と起して、上に立つ人が金儲けのために間違ったことをすることが続いている。この人たちはその職を止めればそれで済むと思っているようだが、皆に与える影響は大きい、以前は上に立つ人には少なからず、しゃんとした人がいた。行政改革を担当した土光さんもその一人であった。この方は日蓮宗であった。朝夕勤行しておられたそうで、気骨があった。加藤辨三郎氏は協和発酵の社長、会長であったが、金子大栄先生の御弟子であった。社長になる様な人は、何かバックボーンになるしゃんとしたものをもっておった。従って、金儲け一辺倒で終わらなかった。

 我々は聖人によって自己自身を追求せよという教を頂いている。どうしてそれが出来るか。それは如来の回向です。回向とは如来きたって私に到り届いて、私の上に自己を掘り下げて行く道が成り立つことである。そこに東にも非ず、西にも非ず、上にも非ず、自己自身を問題にして、遂に往生浄土して仏となって行く道が成立する。これを教行信証の宗教という。

 その教行信証に於いて、異義が破れて行くのである。教行信証がはっきりしないと、東むき、西むき、上むき、というような宗教との相違がはっきりしない。アーラーの神の方がよいとか、エホバの神がすぐれているとか言っているが、これ等は皆、ゾロアスター教である。ゾロアスターという人が考え出した、一神様から生まれたものである。その特徴は、いずれも世界を治める一人の存在がおる。それが絶対者で最後に審判を行う、皆を裁いて、悪いものは地獄へ、善い者は天国へ迎えとるという宗教である。人間の考えた宗教である。ゾロアスターが考えた宗教である。そのような宗教は、つまり教信行証の宗教で、人間が信じ、行ずる宗教である。

 真実一如の世界からの働き掛けを受けて、人間が転回されてゆく。ひるがえされてゆく、それが自分自身を知ってゆくという宗教であり、浄土真宗である。

 その浄土真宗が教行信証の宗教である。教の中にこもる南無阿弥陀仏の働き、それを行という。南無阿弥陀仏の働きが届いて、そこに信と証が生まれる。これを回向の宗教と言う。南無阿弥陀仏の働きとは光明無量と私を照らす。寿命無量と無量の命を持って私を摂めとる。

 照らし、摂めとる働きを如来の行と言う。私が照らされて、照らされて、照らしきられて私自身と言うものを知る。そこに自己へのめざめが生まれる。これを機の深信という。そのままが如来の御いのちの中に摂め取られて、「他力の悲願はかくの如きのわれらが為なりけり」。南無阿弥陀仏となる。それを法の深信という。私自身についての深いめざめと仰ぎみる世界が与えられる。それを如来より賜る信心という。

 南無阿弥陀仏の働きが到り届いて信を生ずる。

 その信は、自己を信じなければならないとか、本願を信ずるがよろしいというような人間の心の思いではない。如来の光明、(智慧)と寿命(慈悲)が到り届いて生まれるめざめである。この智慧と慈悲は、智慧が往相(自利)で慈悲が還相(利他)である。南無阿弥陀仏の働きをわが身に受けて、自利、利他の働きが生まれる。これを現生正定聚の誕生という。これが証である。

証とは何か、いつも申すようにわれらは卵である。卵の殻の中にいて、宗教に会う場合、その宗教は東向きの宗教、または西向きの宗教のどちらかしかない。殻とは人間の持つ自己肯定、我執、名聞、利養、勝他という煩悩、そういうものに包まれておる中で宗教を考えると、東向きの宗教または西向きの宗教しか有り得ない。卵の宗教が教信行証である。

 教行信証というのは南無阿弥陀仏の働きが届いてきて、目玉が出来、嘴が出来、足がはえ、毛並みが揃って、卵が殻の中で、ヒヨコになって、遂に殻を破って出てくる。その教である。この誕生を大きな世界に出るという。教を聞いて、南無阿弥陀仏の働き、(今はあたためるということ)によって自分が育って行く。殻を被って出てきたヒヨコが雛になって、親鶏になって行く。それを証というのである。ヒヨコになり、雛になるのはこの世でなるから現生正定聚という。親鶏になるのは最後の段階である。煩悩の滅したあとである。生まれかわりの宗教が浄土真宗である。はじめから浄土真宗の人は一人もいない。はじめから教行信証の人は一人もいない。皆努力して教信行証から頑張るのである。殻の中の存在に、殻を破れ、自己中心を打砕け、自己肯定をすてろ、といくら言ってもどうにもならない。何故か、卵には卵の殻を被る力がない。たとい破ってもドロッと白身と黄味が出るだけで、殻を破ることは自殺行為である。殻を破るということはそういうことではなくて、変わることです。自分が変わることが大事である。熱を受け働きをこうむって、物を見る目、念仏申す口、聞法に出る足が出来てくる。そしてだんだんと寛容性に富んで、物事を大きな視野で考えることが出来るようになって来て、殻を出る時がくるのである。それを教行信証の宗教という。この宗教は殻の中で、右往左往しておった、東向きの宗教でもなければ西向きの宗教でもない。ここをはっきりしておかなければいけない。考えてみると、浄土真宗、親鸞の教に会うことが出来たということは物凄いことなのです。物凄く大きな幸せなのです。物凄く大きな事件です。それでは日本でも世界でも、この親鸞の教は大いに盛んになって、月々十万人から二十万人、百万人と増えますかな、否増えませんね。これははやりませんね。どうして、今の時代、何とか証券も何とか銀行も超一流のところが何を考えているかというと、金儲けだけを考えている。まずは金儲け、これが人間の特に日本人の考え方ですね。その次は若さ、金、健康、力である。親鸞の教え、生き方には全く魅力を感じなくなっている。関心を持たなくなっている。ですからこれははやりませんね。だから我々は、はやるはやらんかは問題にせず、一人でも二人でもいいから、いや一人でも多い方がいいが、何とかしてこの道を明らかにし、次の世代に残して行かねばならない。今はそういう時代です。数の多いことを求めず、少数でよいから本当の人が誕生することを求めて行くよりしかない。大体本当の道というものはこういうものです。

 私には一つの経験が有ります、ものを動かすのには、大体どれ位の人数があればいいかということを経験しました。ものを動かすとは今は皆が考えない、自己中心の事しか考えないのだけれども、筋が通っていて、その事をやることに大きな意味があって、皆が幸せになるような道、そういう道に立って本当の世界をつくろう、こう言っても今は誰も賛成者がいない、そういう世界をつくらねばならんという人がいない。そういう時には、同志を獲得せねばならん。人間を獲得するのが第一である。どれ位獲得したらよいだろうか。私の考えでは10%です。一割ですね。

 一割の人が同志になったら大体の事はできますね。私は小さな大学にいましたが、それでも教官は二百人おりました。それが四つの分校に分かれていて、一本校、四分校で学生は二千人くらいだったかな。単科大学としては日本の中位の所におった。しかし小さく分校に分かれておりましたから、非常に貧弱な学校でした。これを統合しようという運動を起して、十年たって成功しました。その時に体験しましたですね。10%の同志がおれば出来る。今でも何かやろうと思う時はそのように思います。でも年ですからもう大きなことはやろうと思いません。出来ることをやろうと思っています。今やっている中心は保育園の子供の教育です。これを育てたいと思っています。

 浄土真宗の行き方をする人はそう数は多くない。大体10%は一つの目安だが、具体的には、一年で一人づつ本当の人を生産してゆく。そういう目標だったらできる。一年に一人はえらい少ないですね。しかし二十年たったら二十人出来るのですよ。これは大きいですよ。

 この宗教は、はやらない、はやらないけれども本当の宗教である。これに関心を持つ人をまず作らなければならない。関心を持つ人を作るにはどうしたらよいか、それはいつも言うように、一つには宿善をつくること。次にその土地の土徳をつくる。そして考える人を作らなければいかん。またよく指導出来る人を作らなければならない。それを一つには宿善、二つには善知識という。三つには光明、四つには信心、五つには名号という。光明、信心、名号の三つは如来の働きである。宿善と善知識を作り上げるにはかなりの時間がかかる。大体少なくとも二、三十年かかるのではないかな。しかしまず自分が浄土真宗に会うということが大事である。

 本当に南無阿弥陀仏の働きを頂いて、信証を頂き、卵からヒヨコ、ついに雛になって行くという行き方を自ら知ることが肝要であろう。蓮如上人の教のように「わが身をひとつ勧化せぬ物があるべきか」である。


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