二、異義の三つの柱

『歎異抄講読 異義編(第十一章について)』細川巌師述 より

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 『歎異抄』の参考書は非常にたくさんありまして、明治以来百冊以上あると申しますが、第一章から第十八章までの全体についての参考書は少ない。大体は第一章から第十章までの師訓篇の参考書か、全体を浅く広く歴史的背景などについて言っているもので、各章を厳密に論じている参考書は何冊かしかない。何故このように少ないのかと言うと第十一章以下の解釈が難しいからである。

第一章から第十章までは親鸞聖人の教えであるから、何とか説ける。しかし、第十一章から第十八章までは七百年前の異義である。間違った事を言った人の説である。これを聖人が批判されたのならともかく、その弟子である唯円が批判したものであるから、十章までと文体も違いますし、内容も判りにくいところがある。『歎異抄』の参考書を作ろうという者は、第十一章から行き詰まる。異義篇がよく判らない。この点、了祥の 『歎異抄聞記』は第十一章から第十八章までが非常にすぐれている。異義の内容を克明に研究している。このお方には『異義集』という著作が別にあって、聖人が亡くなられた後の異義が集められてある。


 古来『歎異抄』を勉強しようとする者は、必ず了祥師の『歎異抄聞記』を読むといわれている。特に異義篇は必ず読む。師訓篇も優れているが異義篇の方がより優れている。この本は読みずらいところもあるが、よく読むと、良く書いてあることが判る。

 本願と名号、それを別々にして、いったいお前はどっちを信ずるのかと問う。その根底は何かというと、高圧的に問うているこの人自身が、知的関心に執われて本願を理解している。こういう段階で止まっている。それを誓名別計というのである。

 第十二章で見ますと、経釈を読み学せざるともがら往生不定の由のこととある。ともがらとは輩という字を書く。十二章の異義を不学難生の異義という。この名を付けたのも了祥である。学ばざれば往生難しという名をつけている。経釈を読んで、本願とは何か。名号とは何かということを学んで明らかになるということのない人達は、往生出来ない。これが第十二章の異義です。この不学難生の異義と誓名別計との異義とは、同じ根から出て、ともに知的関心に執われていて、宗教を知性で考えて行こうとする。「学ばなければいけない。わからなければいけない、頭で理解しなければいけない。ただ、名号不思議を信じ、南無阿弥陀仏と念仏で助かると言うことを信じて、念仏を申していけばよいと言うものではない。その根元となる弥陀の本願を勉強して、よく判らなければいけない」。それを知的関心に執われると言う。第十一章と第十二章は同じ誤りの根に立っておって、知性中心の考え方に執われた異義である。

 第十一章から第十八章までを整理して見ると、異義の一つの大きな柱は、人間の知性を中心に宗教的事実を分析的に考える。そしてそれを統合する。そうすれば全体が理解出来るというような考え方、これが知性の行き方である。ここに誤りがある。

 にわとりにキャベツの葉を食べさせる。にわとりはつついて小さくしてたべる。喉に通る位に小さくちぎって食べる。全部食べるかというとたくさん残す。それを小さく切ってやると、またそれを小さくちぎって残す。だから彼が食べたものを全部たし合わせても元の葉にならない。

 我々も弥陀の本願が第一願から四十八願、特にこの第十八願をしっかり聞いて、至心信楽とか乃至十念とかつぎ合わせて第十八願の理解になるかと言うと、どうでしょうか。ここが問題ですね。学んだもので本当にわかるのか。我々は判かると思っている。ここら辺が、異義が出てくる根本である。

異義の柱が三つある。すでに申しましたが、別の角度から言ってみよう。


(1)知的関心に執われている人

 この人たちは知性派、勉強家である。この人たちは信心中心、この信心とは何かと言うと、教信行証の信。教えを理解してそれを信ずる。そして実行してついに悟りに到る。そういう信心。教えと言うものをしっかり学ばなければ本当の信心は出てこない。御前達はただ念仏で助かると聞いて、ナマンダブツ、ナマンダブツと言っている…そういう事では駄目だと言おうとしている。知的関心に執われる人。これが十一章と十二章にいう異義である。


(2)善悪に執われる人

 これに対して、第十三章では「本願を信じたといっても悪を行ずる者は往生出来ない。」という。この人は、倫理的関心に執われて、悪を恐れ、善を励もうとする。本願を信じたら、本願で総ての人が助けられると言うけれども、悪を出来るだけやめ、善を出来るだけ励むという事が大事であると言う。「弥陀の本願不思議におわしまさばとて悪をおそれざるは、本願ぼこりとて往生かなうべからず」という表現になっておる。これは正しいのではないか。本願、本願、と言うけれどもやはり人間は現実生活に於いて、善を励み悪をやめることが大事ではないかと考える。これが間違いであり、異義である。この人たちは知性派に比べれば実行派、念仏中心派、ナマンダブ、ナマンダブと念仏中心にしてる人である。今、第十四章をあげると、さらに具体的に知る事が出来る。

(二三−九) 一「一念に八十億劫の重罪を滅ぼすと信ずべし」と言うこと。

一念は一声の念仏、一声の念仏を申すときに、八十億劫の重罪を滅ぼすと言う事を信じて、念仏申すと言うことが大事というまちがった考え、それが異義である。了祥はこれを念仏滅罪の異義と名付けた。第十四章は広く言うと、罪を犯したならばその度毎に、ナマンダブツ、ナマンダブツと念仏申して罪を消していくことが大事である。念仏を怠ってはならない。ナマンダブツ、ナマンダブツと、念仏を申して我が罪を滅して行きなさいという実行派。念仏申しながら実は善悪に執われる。これを第二にあげてある。第十五章以下もそういうものが入る。


(3)功利に執われる人

 も一つの異義の柱は、功利にとらわれている人である。これは今までの二つから少しずれておる。どの宗教にもあることですが、信者の弱みにつけ込んで、たくさん金を出したならばたくさん利益があると勧めて布施を出させようとする。そのようなゆきかたが最後の十八章に出ている。それは全体のトーンから大分はずれている。しかしそういうものが十八章に出ている。

 十一章から十八章までを見ると、(1)は第十一章と十二章と十五章と十七章、これが誓名別計の異義といわれるもの。(2)は専修賢善の異義、専修は専修念仏、賢善は善を賢げに実行しようという。第十三章、十四章、十六章である。(3)功利に執われているのは十八章のみである。了祥によって異義を分けてみますと、このようになる。


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