九、教信行証の宗教

『歎異抄講読 異義編(第十一章について)』細川巌師述 より

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 「次に(みずから)(はからい)をさしはさみて」「次に」というのは前がある。「まづ」はじめに誓願不思議をとりあげ、「次に」名号不思議の立場から批判する。

 「まづ」の方は誓願不思議を信ずればその中に名号不思議も一つである。「これは誓願不思議をむねと信じたてまつれば名号の不思議も具足して誓願名号の不思議ひとつにしてさらに異ることなきなり」それが「まづ」出ている。「次に自の計をさしはさみて善悪の二つにつきて往生の助け障り二様におもうは」とある、これが今の内容です。

 教を聞いて、それを信頼して、実行する。教を聞いて、考えて、なるほどそうだとわかり、信用して実行する。そこに証を得る。これが教信行証の宗教である。教信行証がこの宗教の骨格である、普通の宗教はみなこの中に入る。教行信証の宗教も初めの段階では教信行証になっている。この宗教では教を信ずるというが何を信ずるのか、そこが問題である。誓願不思議を信ずるのか、名号不思議を信ずるのか、という問題が出てくる。

 誓願を信ずるのか、名号を信ずるのか、そこに二つの立場が出てくる。誓願を信ずる人は、誓願を聞いて考えて、それを理解し、納得するのが中心になる。従って知性中心の行き方である。誓願不思議に力を入れる人は哲学的と言うか観念的と言うか、物を深く考える知性に勝れた人。名号、南無阿弥陀仏で助かると信ずるのは称名念仏の実行派である。いづれにしても誓願と名号とを二つにわけて考える所に間違いがある。

 これが誓名別計の異義です。

 十一章では始めに「まづ」といって、誓願不思議を信ずるということが名号不思議を信ずることになる、この二つは分かれないのだと言って、結論を出しておる。この二つが一つであることは、教信行証の宗教から教行信証の宗教に転じないと、本当にはわからないことです。「次に」「善悪の二つにつきて往生の助け障り二様におもう」。善は往生の助け、悪は往生の障りと考えることが問題である。これは専修(せんじゅ)賢善(けんぜん)の異義、賢善精進の異義です。

 異義とは何か、まづ誓願不思議、名号不思議のどちらを信ずるかと分けて考える知性中心の行き方。次に、これが善いからやるという考え方、それが両方ともまちがいである。いづれも如来無視、如来の如の字も出てこない。私はこう思うと人間の考えが表面に出て来て、それが判断の中心になっている。即ち人間中心、自己中心で、結局、私、私である。私は、私が、となっている所に教信行証の宗教のあり方がある。そこが異義である。

 「私が」ではいけないというのなら如来の教えを聞いて、何も考えずにそれに従って進もうということで解決になりそうだが、そうではない。そのように変えることも、「私が」中心である。これを自力の計らいと言う。教信行証の教えではどうしても自己中心で、自力のはからいを離れることができない。

 教信行証の教えにとどまっている限り、如来中心でなく、自己中心、如来無視の自力の宗教になるのであってこれは避けようがない。大事なことは転回である。前の文をみると『「弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまいらせて生死を出づべし」と信じて、』とある。これは『歎異抄』第一章の「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をばとぐるなりと信じて」と同じである。

 「念仏の申さるるも如来の御はからいなり」というのは第一章では「念仏申さんと思い立つ心のおこる時」とある。このようにここに第一章のこころが出ている。

 この文は教信行証のように見えるがそうではない。「南無阿弥陀仏」の教えを聞きひらいて、生まれる信と行をのべている。教行信(行)証の宗教である。

 「弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまいらせて生死を出づべし」が『教行信証』であり、南無阿弥陀仏の誓願の働きである。誓願の教を信ずるのではない。この誓願が私にいたりとどいて、明らかになる所を、「信ずる」という。信知である。この「信」は教信行証の信と異なっている。これを他力の信という。この信には少しも自らの計いがまじわらないから、本願に相応した教行信証が成り立つのである。本当の教とは何か、南無阿弥陀仏である。弥陀の本願の教である。この教が明らかになって、南無阿弥陀仏がとどいて本当にたすけられてゆく以外に間違っている宗教を正す道はあり得ない。大体異義篇はそう言うゆき方で進んでいる。著者は非常によく考えている。 

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