五、第十一章の意味

『歎異抄講読 異義編(第十一章について)』細川巌師述 より

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 第十一章の意味、誓願と名号が離れないとはどう言うことなのか。


(1)『選択(せんじゃく)本願念仏集』

 これを略して『選択集』と言う。法然上人の主著である。この題名に本願と念仏との関係が非常によく出ておる。選択本願の念仏なのである。「選択本願」を「誓願」と言う。選択本願は如来の選びに選んだ本願、それはただ南無阿弥陀仏である。これが書物の名前でありまして、これを表題といいます。この書物の表にかいてある題名が選択本願念仏集である。その内側のページをあけると、内には南無阿弥陀仏、往生之業(おうじょうしごう)念仏為本(ねんぶついほん)とある。これを内題という。ここに法然上人の大きなお示しがある。

 浄土真宗、親鸞聖人の教えをこうむる者は「親鸞聖人は偉い人だなあ」ということはよくわかる。実に偉い人である。『教行信証』や晩年の和讃をみると良くわかる。しかし法然上人は親鸞聖人の先生である。このお方は実に偉い人である。『選択集』を読んでみるとよくわかる。また『法然上人全集』を読んでみると、徹底した念仏の行者であることがよくわかる。この法然上人の偉大さというものを浄土真宗の人は知らねばならない。

 親鸞聖人が、『選択集』を評価された所がある。『教行信証』の最後の結びのところにあります。

 (一二−二二四)「『選択本願念仏集』は禅定博陸(ぜんじょうはくりく)之教命に依りて選択せ令むる所なり、真宗の簡要、念仏の奥義(おうぎ)、斯に摂在せり、見る者(さと)り易し。誠に是れ希有(けう)最勝の華文(かもん)、無上甚深(じんじん)之宝典なり」。以下ありますが、そこに『選択集』を写すことを許されたという喜びが書いてある。

 禅定博陸、九条関白兼実が、私の弟に浄土門の心を書いて下さいと言って頼まれたからこれを作られた。真宗の簡要がこの書物にこもっておる。また念仏の奥義が入っている。真宗の簡要、念仏の奥義、奥義は奥底の、深い深いわけがらを言う。これが聖人の『選択集』に対する評価である。

 その評価はどこを言っておられるかというと、『教行信証』行の巻の

 (一二−三六) 終わり三行目、「『選択本願念仏集』にいわく、南無阿弥陀仏、往生之業には念仏を本と為す。」と、これが真宗の簡要。真宗とは宗教法人の真宗でなしに真実宗教、その要をえらぶ。一番大事な所を選んで言えば、選択本願念仏、南無阿弥陀仏、往生の業には念仏を本と為す。

 真宗とは何か、真実宗教、「念仏成仏これ真宗 万行諸善これ仮門(けもん) 権実真仮(ごんじつしんけ)をわかずして、自然の浄土をえぞしらぬ」。『大経』和讃の最後の方に出ておる。

 「念仏成仏これ真宗、万行諸善これ仮門」資糧位、加行位、と仏教の段階を進展し、求道していくその段階を、「万行諸善これ仮門」と言います。滝に打たれたり、精神統一、座禅をくんだり、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧、と言うようなことをやる。それを万行諸善これ仮門と言う。これらによって断絶の壁の下までくる。この断絶を超えて、真の仏道を成就して行く道が「念仏成仏これ真宗」。選択本願。如来が選びに選んだ本願の念仏をわれらの上に届けた、この南無阿弥陀仏を本当に聞きひらく所に、往生の行がひらき、断絶を超える道が与えられる。南無阿弥陀仏が根本なのである。「真宗の簡要、ここに摂在せり」。「念仏成仏これ真宗、万行諸善これ仮門、權実真仮をわかずして、自然の浄土をえぞ知らぬ」本当のことがわからずして、皆右往左往しておる。まことに残念なことである。という和讃である。

 選択本願念仏、如来が選んで選んだその選択本願の名号、それが具体的には南無阿弥陀仏、選択本願の内容が南無阿弥陀仏でありますから、誓願不思議を信ずるか、名号不思議を信ずるかなどという問いは有り得ない。誓願と名号は離れないのである。そういうことを十一章では言おうとしている。唯円の書いた文章はちょっとごたごたしておって、これに慣れるまでに少し時間がかかるが、大事な点を指摘している。

 聖人はもう一ついいなすった。

(一二−二二四)「念仏の奥義、斯に摂在せり」。『選択集』に摂在するのである。そこはどこにあるかと言うと、

(一二−三六)「又いわく、夫れ速に生死を離れんと欲はば、二種の勝法の中、(しばら)く聖道門を(さしお)きて、選んで浄土門に入れ、浄土門に入らんと欲はば正、雑二行の中、且く諸々の雑行を(なげす)てて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正、助、二業の中、猶助業を(かたわら)傍にして選んで正定をも(もっぱ)らにすべし、「正定之業」とは即ち是れ仏の名を稱するなり、名を稱すれば必ず生ずることを得、仏の本願に依るが故なりと」。

 そこに念仏の奥義がある。奥義とは、奥深く隠れている、深い意味である。「夫れ速やかに生死を離れんと欲はば」生死は生老病死、迷い、苦しみを言っている。我々はこの迷いの世界で苦しみの中に閉じ込められておる。それを離れて、広い世界に出て、高いその世界を感得しようとする。

 仏教は二つある。聖道門と浄土門がある。聖道門を且くさしおく、聖道門は人間の力で聞、思、修と頑張ってゆく、しかしついに道に達することができない。真の道の成就は如来の本願にしかない。

 聖道門これをさしおいて、選んで浄土門に入れ、浄土門に入らんと思はば、正行と雑行とがある。正行は弥陀を中心に行ずる。雑行は弥陀を除いて、色々な仏に対し色々な考えを持って行ずる。雑行をなげすて、選んで弥陀一仏を中心とする正行を修せ。次に、読誦その他のものを助業として、正定業を一つ取れ。正定業とは称名念仏である。仏のみ名を称するなり。それが仏の本願に順ずる道である。そこに仏道の成就がある。

 これを三選の文と言う。

 念仏とは南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏することである。この念仏に到達する求道の歴程を申すならば、選んで、選んで、選んで、(さしお)いて、(なげす)て、(かたわら)にして到達するもの。それを念仏と言う。如来の本願の念仏が、私に届くには転回と言うか、進展と言うか、そういうものがなければできない。

 この三選の文は『選択集』の最後に結論として出ている。これを総括の文と言う。従って『教行信証』には『選択集』の初めと最後の言葉をあげて、そこに真宗の簡要、念仏の奥義がこもっておると述べられている。

 今、念仏の行者、信心の行者という人の念仏は、ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とだけいっているようだが、さにあらず。捨てて捨てて、閣いて、拠てて、傍にして、選んで選んで選んだその色々な段階をへて、とうとう最後に到達したものが念仏なのだ。それが本願の念仏。そういうことを言われたのが十一章である。誓願、名号が離れない。人間の上に、選んで選んで選んでとうとう如来の本願が届くところが南無阿弥陀仏なのである。最後の所である。

 念仏の世界とはその世界のことを言ってある。これが大事な所で、難しい所でもあり、わかりにくい所でもある。究尭位を南無阿弥陀仏と言う。ここから私に届いて下さるものが南無阿弥陀仏、これを本願の名号と言う。

 本願とは何か。二つ意味があって、一つは本来の願、本来とは本からあるといいます。哲学ではアプリオリーと言う言葉があって、人間が作ったものでない。もとから根本的に存在しておるものを本来という。それを願力自然と申します。われらに本来、願力自然に働きかけてくるもの、その内容は、この小さな私に、「大きな世界に出よ」「汝、小さな世界に留まることなく、無限絶対の世界に出よ」と呼ぶ。この願を根本の願と申します。それを大いなるものの願という。それを仏教の根本と言う。

 如来の本願は、こしらえたものでもない、想像して作ったものでもない。ものの道理を言っておる。即ちじねんというのである。願力自然という。小さな殻の中にとじこもっておる私に大いなる世界にいでよと呼ぶもの、それを本願という。しかしそのような本願があろうとも、我々はそれに気づかない。それを知る力がない。そこで如なるものは、ついに、最後に自己自身をひっさげて如から来って、そして自らを私に届けようとする。私に到り届こうとする。それを如来廻向という。廻向と言うのは、私に到り届くことを言っている。太陽が働きかけて、光となって、ものに注いで種子を発芽させようとする。発芽と言うのは殻を破って出ることである。それには彼が来って、光となって、その光が届いて芽が出てくるのである。発芽には太陽の廻向がある。

 如来の廻向を南無阿弥陀仏と言う。如なるものが南無阿弥陀仏となって私に到り届こうとすることを本願と言い、とどくそのものを名号という。それを表現したのを大無量寿経という。真理は大いなるものの働きかけ、そして私に到り届いて私を大いなる世界に出して、如なるものと一体ならしめようとする。その働きかけを如来本願と言う。その到り届いて下さる姿が南無阿弥陀仏である。本願名号という。従って、本願と名号が離れない。


(2)選択本願が届く姿

 選んで選んでその本願が届く姿をこの十一章には次のように述べられている。

 (二三−五)四行目、「誓願の不思議によりて易く持ち称(とな)え易き名号を案じ出したまいて「この名字を称えん者を迎えとらん」と御約束あることなればまず「弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまいらせて生死を出づべし」と信じて、「念仏の申さるるも如来の御はからいなり」と思えば、少しも自らの計らいまじはらざるが故に、本願に相応して真実報土に往生するなり」。

 この文章は非常にわかりにくいですね。特に「誓願の不思議によりて、易く持ち称え易き名号を案じ出したまいて」これは現代人には理解しがたい表現である。

 「この名号を称えん者を迎えとらん」と御約束あることなれば、これもわかりにくい、親鸞聖人はこういう表現はなさらない。唯円の表現です。しかし慣れるとわかるようになります。

 「誓願不思議によりて」如なる世界、絶対無限の世界を私が知ることが出来るか、知ることは出来ない。如は高次元の世界、我々は低次元の世界。次元といいますと、数学とか物理で使うことです。一次元とは直線の世界である。直線の上しか行ったり来たりしない。窮屈な狭い低い段階である。低い段階の者は高い次元のものがわからない。一次元の世界のものに二次元の世界を説いてもわからない。次元の低いわれらには、高次元の世界がわからない。それでは人間は助からない。如なるものが我らに届く為には、高次元のものが我らにわかるようにおりてこなければならぬ。それを光明無量、無量の光明という。こういわれると少しわかる。認識の及ばないところ、その高次元の世界からの働きを光明無量、寿命無量というわれらにわかる次元の言葉に表されると、我らの為に高次元のものが具体化して来た感じである。そういうことが「誓願の不思議によりて持ち易き称え易き名号を案じ出したまいて」という表現になっておる。

 我らに、如なるものが具体化し、如なるものがおりたって働きかける。この具体化、高次元のものが低次元の世界に現れて来る、それを光明無量、寿命無量それをアミタユース、アミターバー、阿弥陀仏という。阿弥陀仏というところに、如なるものが如来してくる。来というのが届いてくる姿をいう。いま母親と子どもがおる。子どもは生まれたばかりの赤ん坊である。赤ん坊が生きて行くには、母親がたべる物を子どもに食べさせようとしても食べられない。もう少し子どもが大きくならないと口に入らない。野菜も肉も魚もその他卵も母が食べて、それを母乳にして具体化したら子どもに飲める。如なるものが如来にならなければならない。如来になると言うことは我らに届いて我々が咀嚼(そしゃく)出来るようになってくる。これを従果向因(じゅうかこういん)、果より因に向うと言う。果、如来のさとりの世界から我らの迷いの世界即ち因に向かって働きかける姿を、誓願の不思議と言う。我々の思いの及ばないそういう働きによって、如なるものが如来となり、大きなものが具体的になる。

 誓願の不思議によって、南無阿弥陀仏となる。南無阿弥陀仏が我々に届いてちょうど母親が食べたものが母乳となって、赤ん坊に与えられる。このように具体的なものになる。それを本願の宗教と言う。これを選択本願念仏と言う。これが届くと、南無阿弥陀仏、と念仏になるのである。そういう心を書いてある。この文だけ読むと、何となく近づき難いところがあるが、心はそういうことを述べている。この南無阿弥陀仏によってわれらは、高次元の世界に出るのである。


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