四、自力の心が異義の根である

『歎異抄講読 異義編(第十一章について)』細川巌師述 より

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(1)自らが身をよしと思う心(自己肯定)

 自力といえば、普通は自分の力と思う、他力といえば他人の力と思う、従って他のひとの力を頼むのが他力本願。これではいけない。自力本願でなければいけないという人がいますが、全く物の道理がわかっていない。そんなことが言われているのではない、宗教の用語というものは常識で解釈してはならない。自力というのは、自らが身をよしと思う心、深い自己肯定の誤りを言っておる。これが定義です。自己肯定というのは、私は間違っていない、正しい事を言っておる、正しい行いをやっておるという深い自己主張、それが人間の持つ執われです。


(2)身をたのむ(やれば出来ると思う心)

 自己過信、わが身をたのむ。やれば出来るとわが身を頼んで、如来を頼まない。それを自己過信という。知的関心に執われている人。善悪に執われている人、みな自己肯定が根本である。聞いて、考えて経釈を学んで行けば、自分に判る筈だと自己に対して自信を持って、如来などみむきもしない、それを身をたのむという。


(3)悪しき心をさがしく顧みる

さがしくは賢しこげにという。これを機をあつかうという。そこに優越感や自己卑下を伴う。そこから自己嫌悪も起こってくるのである。心をあつかう、これを自力という。悪しき心をさがしく顧みるというのは、悪い心が起って良い行いが出来ない、勉強すべきであるのに勉強が出来ない。このように煩悩が起こると、こういうことではいけない、こんな私では駄目だと自己卑下に落ちる。こんな私では駄目だというのを、あしき心をあつかうと言う、これが異義の根で、人間の進展をさまたげる。今、猿がいる。猿にらっきょうを与えて、これがらっきょうだという。猿は一皮むいて見る、今のは皮じゃ、またむいて見る。これも皮じゃといって、らっきょうはどれか、といって一枚づつ皮をむいて行ったら、とうとうらっきょうはなくなる。皮がらっきょうである。これは悪じゃ、悪じゃといって、自分の心をむいていったならば、これも駄目、あれも駄目というて落ち込んでしまう。そういうのを自力という。自分自身の心をあつかう。あつかうというのはあまり使い慣れない表現ですね。

大事なことは何か。それは、物は育てねばならない。自分が大きく育って行くためには、自分をあつかわないということが大事なことである。それは私の善いも悪いも如来におまかせして、私は一筋にこの道を聞いて行くということが大事である。いつも言うように、筍が地面から芽を出した。それを掘る。しかし見ると皆皮じゃ、一皮はいでみると皮、これも皮、これも皮、これも皮とむいて行ったなら、筍はなくなります。竹でない筍が、竹に成長するのには決して皮を取ってはいかん、皮が竹になるのじゃ。放って置けば大きくなって、落ちるべきものは落ちて筍は竹になる。それが大事です。自力の計いと言うのは、それも駄目、これも駄目といって、そこに執われが出ている。これを言っている。


(4)人をよしあしと思う、冷たい批判の心

人は皆冷たい目で見れば、欠点ばかりである。けれど温かい目でみたら、欠点を持ったままが素直な心を持っており、頑張って行こうという気を持っているのである。それを伸ばして行くことが大事であります。それだのに、お前は駄目だ、君はつまらぬといって相手にけちをつけていく。そして、自分の思う方向に引っぱって行こうとする所に、人をよしあしという思いがある。これを自力の計いという。

考えてみると、この自力の計いというものは、善いのか悪いのか、ということからいえば、善いとも悪いともいえない。人間がみな持っている心の殻である。卵でいえば、卵の殻に相当していよう。

殻というものは、善いとか悪いとかいうものではない。なければならないものである。それがあるからこそ卵というものが自己保存を遂げて行く。腐らない、壊れないで自分が保たれている。けれども、いつまでもこの殻のままではやがて腐ってしまう。やはり殻は砕かれなければいけない。殻はなくならなくてはいけない、けれどもなくてはならない物である。ある段階まではなくてはならないものである。けれどもいつまでも殻の中にあってはならない。

自らが身をよしと思う心、身を頼む心があればこそ、人間は人間として成り立つ。ですから自力の心と言うのは、それがあればこそ生きて行けるのであり、聞、思、修、とやって行けるのである。悪しき心をさがしく顧みるからこそ反省をする。人を善し悪しと思う心があるからこそ、それがはね返って自分自身というものをふりかえるのである。これらは殻である。だからなければならないものである。がいつまでもあったならあなたの一生はそれで終りである。卵で終る。卵として朽ち果ててそれで終る。ならば殻を破らなければといって、これを叩き割ったらどうか。そうしたら卵としては自殺である。殻を割ったら中身が出て、卵は死んでしまう。そんな破り方をしてはいかん。親鳥が抱いてやって、温かな熱を与える。現代なら孵化器で熱を与えて行けば目玉が出来、嘴が出来、足がはえてヒヨコになって、そして殻が割れてそこに新しくヒヨコが誕生している。それが殻を出るということである。殻を出るとは生まれ変わりである。

自力の殻が破れるということは、自力がなくなるということではない。本当に育てられて、卵からヒヨコにかえって行く世界をいう。

これを通達位というのである。そこに人間改革人間の生まれ変わりがある。それを廻心という。廻心の段階においては、先のような異義を持たない。知的なものに執われない。ただ南無阿弥陀仏である。南無阿弥陀仏が本願である。本願は南無阿弥陀仏である。南無阿弥陀仏が本願であって、本願のほかに名号はなく名号そのものが本願である。誓願不思議を信ずるか。名号不思議を信ずるか、そんなことを言うのが間違っている。如来の本願で助かるのであり、本願の中身が南無阿弥陀仏である。こういうことが本当にわかる。往生浄土のために経釈を読み学す必要は毛頭ない。聞きひらくことが大事である。読みぬくことが大切。道理がだんだんわかって来るところを、異義を超えると言う。転回しなければいかん。同じことをくり返しておるのは、中途半端な段階、初心の段階である。もう一つ大きく飛躍しなければならない。

転回の手前で停まっておる時に起る執れ、間違った考え、これを異義と言う。従って異義は一面から言えば、皆が一度は体験するものであり、一面から言えば皆が超えなければならないものである。従って異義を学ぶことは私自身を学ぶという面がある。私を照らす鏡を持たされたようなものである。そういう一面がある。異義をいいかえると、自力の計いというのである。これを超えるということが大切。それを断絶を超えるという。これを廻心懺悔(えしんさんげ)と言うのである。廻心のところに異義を超えるのである。


第十一章には「誓名別計」と了祥が名前をつけた。大変古めかしい名前でありますがそれを普通は用いておる。誓願と名号とが別々に理解されている。

誓願と名号を別々に計って、一文不通のともがらの念仏申すにおうて「汝は誓願不思議を信じて念仏申すか。又名号不思議を信ずるか」と言い驚かして二つの不思議を詳細をも分明に言いひらかずらして人の心を惑わすこと。ここまでが異義で、誓名別計と言う。

それに対する答を以下述べられておるのが第十一章の内容になっていますが、全般的にやさしい口調というか、ゆるやかな調子で、きびしくそれを批判すると言うような所はない。これでいいのかなと不思議に思うほどに、やさしく言ってある。一番きびしい批判は、第十二章ですね。

(二三−七) 「たまたま何心もなく本願に相応して念仏する人をも「学問してこそ」なんどと言いおどさること、法の魔障なり仏の怨敵なり、みずから他力の信心かくるのみならず、あやまって他を惑さんとす」。

「法の魔障なり、仏の怨敵なり」と最大級の非難をいわれておる。これはきびしく言わなければならない所と思います。

第十一章の内容は誓名別計という異義、これに対して唯円が言っているのは、誓願と名号は離れない。これを不離と言う。二つのものではない。これを不二と言う。これを二つの面から言っている。一つは、「誓願の不思議をむねと信じたてまつれば名号の不思議も具足して、誓願名号の不思議ひとつにしてさらに異なることなきなり。」と正攻法で言っておる。


第二は、つぎに自らの(はからい)をさしはさみて…反対側から善悪の二つに就いて、善いことをやれば往生の助けになる。悪いことをやれば往生の障りになる。と思うのは誓願不思議をたのまずわが善の行を頼んでいるのである。たとえ念仏申すともそれは自分の行にすぎない。その人は名号不思議をも信じていないのである。逆の立場からいっておる。


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