八、本願成就(信心成就)の中心点は諸有衆生の誕生にある

『歎異抄講読 異義編(第十一章について)』細川巌師述 より

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 『尊号真像銘文(そんごうしんぞうめいもん)』に「唯除は五逆の罪人を嫌い謗法の重き咎を知らせんとなり」ありましたね。(一七−一) これを知る人となることが諸有衆生の誕生です。


(1)重い罪、重い咎を抱いた罪人われのめざめ

 重い罪、重い咎を抱いた罪人われのめざめ。これが大事です。重い罪、重い咎とは何か。それは如来無視。なる程、念仏も申し、聞法もし、仏法の為にお金も使い、時間もつぎ込んで精進をして来ておるが、具体的な自分の生活というものを考えてみれば、全く、自分中心であり、私、私、私、であって、如来の如の字も考えたことがない。そういう日暮らしをしている。何と如来無視であることか。阿鼻地獄におちて行く罪人である。無間地獄におち込んで、また無間地獄にまわり又まわってまわって、百も千もまわって、とうとう出る時がない。それが人の話になって、自分のことにならない。それが問題である。本願で助かるだろうか、念仏で助かるだろうか、どちらだろうか。と言う論議になる。助かってないからそういうことになる。助かった人間は、そう言うことは言わない。如来本願がなければ、私はいったいどうなっていただろうか。この教えがあればこそ、私の今日は有るのである。南無阿弥陀仏、ありがとうございました、となる。誓願名号が一緒である。分けて考えることが出来ない。

 厚い厚い、深い深い御恩を受けながら、親、父母、よき師、よき友、よき僧伽、そして如来に対し全くの恩知らずであった。

 これらを根源的罪という。人間の持つ根源の罪。キリスト教でも原罪と言って原罪を人間は背負うているという教がある。

 キリスト教は非常に深い教ですね。新興宗教にくらべると大変に深い。「罪人われ」と言おうとしている。しかしキリスト教の原罪はアダムとイブが神の教にそむいて、禁断の木の実を食べて、天国を追放された罪である。あまり我々と関係ない。先祖がいらんことをした為に子孫が罪を背負わなければならんというのは何か他人事のような罪である。

 仏法では、他人の罪ではない。アダムとイブが犯した罪ではなくて、私が犯している罪である。紛れもなく私の罪である。そこが違う。ここは非常に厳しい。罪人われと目が覚めるということがかなめのかなめである。

 私は「お粗末な人間である。愚者悪人である」という。小さな事にすぐ腹を立て、今日も子どもと言い合いをした。主人を大事にして置けば良いのにいつも八つ当たりして私は悪人ですという。なる程、それは重い罪ですねと言いたいが、それは軽い罪ですね。枝葉末節である。重い重い罪、阿鼻地獄に落ち込んで出て来られないという罪ではない。根源の罪、私の存在そのものがもつ罪、それがわからなければいけない。


(2)名利と愛欲を脱し得ない自己

 名利と愛欲を脱し得ない。名利は名聞、利養は結局自分が得をして、幸福にならなければ損だと言う、打算的な思いである。愛欲は恩愛、貪欲、親子、夫婦、男女、そう言うつながりを脱し得ない。そういう所にどうしても自分の居り場所がある。

 諸有衆生が誕生することが大事。これが生まれると、助かると言うことが成り立つのである。繰り返してその事を申しました。


 助かったならば、誓願名号は一つである。それを不思議と言う。

 不思議と言うことは、思議を超えたことを言っておる。不思議ということに就いて『教行信証』には五つあげてあって、五つの不思議と言うことがある、「五種の不可思議有り…善住持力の所摂なり」「然るに五つの不思議の中仏法最も不可思議」(一二−一五一)とある。これを弥陀の大悲大願不思議と言うのである。まず五つの不可思議と言うことが言われている。

 たくさんたくさん、人間の知恵の及ばないものがある。衆生多少不可思議、これは生命力の神秘さ、業力不可思議、これは遺伝力、業の力ですね。龍力不可思議は自然現象。禅定力不可思議は精神力。そのようなものに就いては本当に不可思議と言わざるを得ないような現象がたくさん有る。これらの現象は、そのうち学問が進み、また様子がわかるに従って、「そういう道理だったのか」「それなら当然じゃ」となって不可思議でなくなるものもある。曽我量深師は「はじめは不可思議であったが、道理がわかると不可思議でなくなるものと、はじめは不可思議でなかったものが、道理がわかればわかるほど不可思議になるものがある」と申された。仏法不可思議とか誓願不思議というのは、初めは何の事はない、不思議ともヘチマとも思わないが、聞いているうちに、だんだんわかって来る。そしてとうとう私を包み、私を潤し、私がその中で頭を下げざるを得なくなる。南無不可思議光如来となる。弥陀の大悲大願不可思議、弥陀の誓願不思議という。不思議とは「不思議で不思議で仕方がない。」と言うのでなく、大いなる感銘、心の一番どん底に深く深く沈み込んで行く感銘が南無不可思議光如来である。それを不可思議という。

 誓願不思議即名号不思議、即ち如来の誓願の、心も及ばないそのお働きこそ、南無阿弥陀仏の働きである。不可思議は南無阿弥陀仏に救われた者の感銘である。この感動は年とともに、いよいよ深まって行く、それを不思議と言うのです。はじめは何ともない。弥陀の誓願不思議と聞いても何ともない。そんなものどうでもよいと思って聞いている。しかし道理がわかって来ると、聞き開くにつれて、南無阿弥陀仏と念仏になって来る。そうだったのかと、いよいよ弥陀の誓願不思議となって、ふかい感銘となる。不思議というより他に言いようがない。それは誓願不思議も名号不思議もわかれない。誓願不思議と申しても誓願名号に対する感動である。わけようがないものであって、別々に考えるという考えは出てこない。誓名別計が出るのは、本願がわが身にわからない途中の過程で出るのである。途中の十九願、二十願の世界の出来事なのである。だからもう一歩、二歩進展して行くことが大事です。異義篇はすべてそういうことを教えておる。そう見て行くと、異義篇には頂かねばならん所がある。異義だけとりあげて言うとつまらなく見え浅くしか見えない。しかし今、この第十一章を近角常観師の指摘によって、第一章をバックに考えてみると、異義とは「弥陀の誓願不思議に助けられ」ていないためにおこる考えであることがわかる。助かるということがわからなければいけない。そのためには自分自身がわかることが大事である。


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