十一、行の問題

『歎異抄講読 異義編(第十一章について)』細川巌師述 より

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(1)善悪に執われる心

 「次に自の計をさしはさみて善悪の二つにつきて往生の助け障り二様におもふは」

 善悪ですね、善は往生の助け、従ってこれはプラス、得である。悪は往生の障り、これはマイナス、損である。「二様におもうは誓願不思議をばたのまずして我が心に往生の業をはげみて、申す所の念仏をも自行になすなり」私の思い、私の判断、私、私、それを自己中心と言う。これを自己肯定と言う、自己中心の中に深い自己肯定がある。よいことが出来る。悪いことはやめ得る。という深い自己肯定がある。また深い打算がある。よいことをやれば結局は得だ、往生の助けになるという打算心がある。善悪は理性、損得勘定は本能、この二つを自力の計いというのである。

 そこでこの人は念仏を申している、けれども結局、名号不思議を信じているのではない。如来の名号は関係ない。唯それが善である、往生の助けになるからやっているので、名号の不思議を信ぜず、誓願の不思議も信じていない。結局自己の思いを信じているのである。如来の如の字もでて来ないという体たらくである。

 それが行における問題で、行ずるとはいうものの結局自己の打算と自己肯定、よいことが出来、悪いことを止め得るという、自己判断が根本であって、如来をたのまずである。


 「信ぜざれども辺地懈慢疑城胎宮にも往生して果遂(かすい)の願の故についに報土に生ずる。」信ぜざれどもとは何か、誓願不思議も信ぜず、名号不思議も信ぜず、全く自己の計いである。けれども辺地、懈慢、疑城、胎宮に往生する。

 四つありますが聖人は一括して、化土の往生と言われている。辺地は辺鄙(へんぴ)な所、片ほとり、中心点を離れている。中央から遠い所にいることで、文化果てる所、友のいない処に孤立している。懈慢とは、懈怠、憍慢。

 懈怠とは自分はもう最上の位まで得たという。そこで精進を怠る。鼻高天狗になっている。それを懈怠憍慢と言う。大体この二つは十九願の世界を言う。如来を信ぜずに、自己の計いで押し通している人の世界である。疑城胎宮は疑いの城、子供が母親の胎内にとどまって生まれ出ない状態、浄土の中で一つの殻に入っていることを言っている。

 浄土に往生してなおかつ殻の中にいる。それを二十願という。十九願、二十願の世界を一括して化土往生という。自力の段階であるけれども化土の往生を遂げて、浄土の一角に入ることが出来る。それが如来の大悲である。ここに如来の悲願がある。化土まで来ることをまず願われている。念仏を申し、本願の話を聞いて、聞法、礼拝、継続してくれるならば、まずここまでは迎えとりたい、それが十九、二十願である。そして、ここまできたら果遂の誓によって、必ず報土へ往生させたい。これを二十の願と言うのである。化土に生まれてきたものを報土に生まれさせずにおかぬ、果たし遂げずばわれ正覚をとらじという願いによって遂に転回してゆくというのを誓願不思議という。また名号不思議という。聖人の和讃を頂いてみると、(一一−一八)「定散自力の称名は果遂の誓に帰してこそ教えざれども自然に真如の門に転入する。」

 「定散自力の称名」定善、散善に執われて、善いことをやろう、念仏はよいことだ、だからやろうそこに深い打算がある、自己肯定がある。これを定散自力の称名と言う。真如の門に転入するとは十八願の世界に出ることを言う。

 「教えざれども自然に真如の門に転入する」具体的にはどういうことか、それを『大無量寿経』にみてみると、(一−七三)に(たと)えが出ている。疑城胎宮の様子が述べられている。

 「仏弥勒(みろく)に告げたまはく、『譬えば転輪聖王の別に七宝の宮室有りて種々に荘厳し、牀帳(じょうちょう)帳設(ちょうせつ)し、諸の傷リ(ぞうはん)を懸けたらん、若し諸の小王子有りて罪を王に得ば、(すなわ)ち彼の宮中にいれて(つな)ぐに金鎖(こんさ)を以てし、供給(くきゅう)に飲食、衣服、牀褥(しょうのく)、華香、妓楽、輪転王の如く乏少(ぼうしょうするところ無けんが如し、意に於いて云何ん、此の諸の王子、寧ろ彼の処を(ねが)はんや(いな)や。』(こた)へていわく、「不なり、但種々に方便し、諸の大力を求め、自ら免出するを欲せん。」


(2)化土往生とは

 「繋ぐに金鎖を以てす」この譬えはすばらしい。住んでいる世界は立派な処である。転輪聖王の宮殿の中の別室、立派な部屋の中におる。食べ物も、着物も、家具も、お香も、音楽も、全部王と同じだが、一つ違う。それは繋がれている。くくられておる。金の鎖で繋がれている、それが束縛になっている。自由自在というわけにいかない。金の鎖とは何か、金はインドでは一番貴い物。貴い物とは念仏、教。仏法がその人を縛るものになっている。念仏がその人の手(かせ)、足枷になる。念仏もしなければならない。聞法もしなければならん、しっかりしなければと仏法が彼の足を縛るものになっておる。それを化土往生という。

 「真如の門に転入する」と言うのはその鎖がなくなることである。仏法や念仏がその人の負担になっている。しなければならんという足枷になっている。それが超えられて、随意自在となる。

 五種正行を言うのは、読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆供養、まとめると聞法すること、勤行すること、念仏申すこと、この三つになる。

 それが私を縛る鎖になる。今日は日曜日、今日は一月一日、今日も起きて勤行しなければいかんのかなあと思うと苦になる。苦になるうちは化土、繋ぐに金鎖を以てす、である。他人の話ではないですよ。自分の話なのです。あなたが土曜であろうと、日曜であろうと、一月一日、であろうと、十二月三十一日であろうとも、朝晩よろこんで勤行できるようになったら大体繋ぐものはなくなったといえよう。

 二十願という世界は、念仏しなければならないと言うことはよくわかっている。しかしそれが重荷になる、そしていざと言う時に念仏が出ない。いざと言う時とはどう言う時か、現実に問題に出会ったとき、病気した時、子供が亡くなった時、願いごと叶わず、悲しいことが次々と起こったとき、この様なときに、これが本当に私が受け取るべき現実、南無阿弥陀仏と念仏となるのが十八願の世界である。現実が念仏になるのである。しかし念仏申さなければいかん、念仏申すことが大切だとわかっているばかりでいざと言う時に出ない。これを二十願の世界と言う。縛られているからいざという時、役に立たない。これを観念的と言う。頭だけで身体全体のものになっていない、身体の一部にとどまっている、これが疑城胎宮である。

 その化土を超えて、「教えざれども自然に真如の門に転入する」とはどういうことか、(一−七三) 「若しこの衆生、その本罪を識り、深く自ら悔責(けしゃく)し、彼の処を離れんと求むれば」


(3)「その本罪を識り、深く自ら悔責し」

 これが果遂の誓が届いた処である。自分の本来の罪。根本の罪を深く深く知って、申し訳ないことであった。南無阿弥陀仏と懺悔する。それを果遂の誓が届いた姿という。「教えざれども自然に真如の門に転入する」のである。

 本罪とは何か、根本の罪、本来生まれたときからもっている。後から出来た物でない、もとから有る罪、五逆、誹謗正法をいう。

 五逆は恩知らずである。父を殺し、母を殺し、よき友を殺し、よき師を殺し、仏身より血を出す、恩知らずのことをいっている。誹謗正法は如来無視、自己中心をいう。これが私、自己の根本の罪と目が覚めた。そして南無阿弥陀仏と懺悔してゆくところに鎖は切れ果てるのである。

(4)二十願の世界とは

「念仏申すべき」時とよくよく知りながら大事なときに念仏が出ない人、それを観念的と言う。頭でわかっているが、縛られていていざというときに役に立たない。

十八願とは、深く本罪を知って、回心懺悔する。このような天地に出た人はいつも念仏する。こういうていたらくの愚か者、南無阿弥陀仏と念仏申す人になる。

「他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけり。」南無阿弥陀仏と念仏になる。それを十八願という。それを教行信証、浄土真宗と申す。深く自己を知って、東むきでも西むきでもなく、自己自身があきらかになってゆく宗教、そこには異義はない。東か西にむいているところに異義がある。

以上十一章を考えてみると、誓願不思議を信ずるという問題に就いて何を信ずるのか、誓願か名号かと二つにわけるところに誤りがある。また後の方は、行ずるという点に問題があります。善だから行ずる。得だから行ずるという考え方の誤りを指摘している。そして本当は、誓願、名号は離れないのだということを力説している。

最後に、「果遂の誓に帰す」とは具体的にどういうことか。これについては後に詳しく申したい。


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