六、作為の念仏から自然の念仏への道

『歎異抄講読(第十章について)』細川巌師述 より

目次に戻る

南無阿弥陀仏と無私に称名念仏するところに仏法がある。が、我々の念仏は初め作為であることを免れない。一生懸命自分で決心して念仏している。しかしそれでは本当の念仏ではない。本当の念仏は作為を離れている。従ってどうしたらそうなるのかが明らかにされねばならない。

○曇鸞大師

このことに一番初めに触れられたのは曇鸞大師であった。中国で二千年位前の人である。大師は『浄土論註』の中に「不如実修行相応」ということでこの問題を論じた。不如実とは本当でないこと、正しくない念仏、教に相応しない念仏。仏法の教えに相応しない間違った念仏。それはいくら称えてみても心の中がすっきりしない。「称名念仏することあれども心の中に無明が残って、志願を満たさないのはなぜか」という。念仏は申しているが心の中にすっきりしないものが残って、どうしても不満なものがくすぶっている念仏。こういう念仏をとり上げられた。これが作為の念仏である。

我々が一生懸命称える念仏は、いくら称えても、よかったということにも有難いということにもならないことが多い。「南無阿弥陀仏」で切れない、何やらくすぶっている。これを不如実修行相応という言葉で言ってある。作為の念仏である。

大師の指摘によると、作為の念仏には二つの問題点がある。第一は如来がわかっていない。南無阿弥陀仏と称えてはいるが、南無阿弥陀仏という仏がわかっていない。第二は信の不純、心の根っこが不純である。信とは心の根。どう不純かというと、「一者信心淳からず」、そこに虚飾がある。虚飾とは自分の心を飾ろうとする。心の根っこに、念仏申して私の悪い所を取り除いて立派になり善い心になろうという虚飾がある。「二者信心一ならず」、決断がない。「三者信心相続せず」で続かない。即ち継続性を持たず一時的である。この二点をあげて曇鸞大師は作為の念仏というものを指摘した。二千年も前の非常に鋭い指摘である。これは現代に通ずるものである。

作為の念仏から本当の念仏になって仏法を成就するにはどうしたらよいか、これを明らかにされたのは善導大師であった。

○善導大師

善導(ぜんどう)は千五百年前の中国の人である。この教を受け継いだのが法然であり親鸞である。曇鸞、道綽、善導、そして法然、親鸞において念仏の不純さの解決道が明らかになった。

善導がとり上げたのは『観無量寿経』(『観経』)であった。『観経』によって作為の念仏から本当の念仏への転回を明らかにされた。

『観無量寿経』は非常に大切なお経で、現代の経典というべきものであろう。たくさんあるお経の中で、現代人の経典として一番ピタッとくるのは、この『観無量寿経』である。なぜかというと他のお経、たとえば『法華経』は、釈迦は今から三千年前に死んだのではない。それは迹門の釈迦である。本門の釈迦は久遠の釈迦であると、永遠の釈迦を説く。これは必ずしも現代人にピタッとこない。大体釈迦という人が問題にされていない時代である。『涅槃経』、これも大切なお経である。これは釈尊が亡くなる時の説法が中心で一切衆生悉有(しつう)仏性」とある。大事なお経だが観念的に受け取られやすい。『華厳経』には菩薩の誕生ということが説いてある。これも大切なお経で大乗経典の中心である。けれども、も一つ具体性がない。このような点からいうと『観経』は非常に具体的である。人生の悲劇という具体的な事件がとり上げられている。

観経』は、夫が自分の息子から殺される、その悲劇に出逢った母親の問題をとりあげている。現代はまことに悲劇の時代である。悲しいことが次々と起ってくる時代である。そういう悲劇の中から、どうしたら立ち上がれるのかを教えている『観経』は、まさに現代の聖典というにふさわしい。その悲劇の主人公である韋提希、これは女性である。女性的性格の代表者である。

女性的性格とは、一言で言えば自己正当化であろう。そういう悲劇の中に居りながら、私は何も悪いことはしていない、あの人達が悪いのだという責任転嫁と自己弁護。これを女性的性格という。人は色々問題をひき起した時に、「君はどう思うか」と聞かれると、私が悪かったとは殆んど言わない。皆「相手がこうでしてね」と言って自己弁護する。それは弱いからである。弱い者はそういうふうに自己正当化する。私が悪かったとは強い者でないと言えない言葉である。しかしながらそれは女性だけの性格ではない。女性的性格であって男も女も、人間だれもが大なり小なりみんな持っている性格である。

主人公韋提希は女性的性格の代表者である。これを最も救われ難い存在という。お経を見ると、悪い者はたくさん出てくる。一番悪いのは提婆達多で、釈尊のいとこでありまた弟子でありながら、最後に釈迦教団をひっくり返してしまう。釈迦教団を分裂させ、五百人の弟子を引き連れて新しい教団をつくり、釈尊に色々な妨害をする。も一人悪いのが韋提の息子の阿闍世である。父親を殺した大罪人である。ところがこの二人はやがて救われていく。なぜ救われていくかというと、私が悪かったというから。その時仏法が耳に入って救われる。韋提希は私が悪かったと一言も言わない。みんなあの人達が悪いという。私にも悪いところがあるかも知れないが、たいして大きな罪は犯していないと自己弁護する。このような存在が一番救われ難い。この韋提が救われていくのが『観経』である。これが最も現代的な経典である。三千年昔に説かれているけれども、これが一番現代的なお経だと、私はつくづく感銘する。

彼女は釈尊にお逢いして色々述べた最後に尋ねた。「われに思惟を教え、われに正受を教えたまえ」。私に考え方を教えて下さい。阿弥陀仏についてどう考えていったらいいか、考え方を教えて下さい。どう受けとめていったらよいか、受けとめ方を教えて下さいと願う。これが『観経』の本文の初めである。教えてさえ頂けば私はこれをやって行きますという心根を丸出しにしている。これを自己肯定という。やればできる、頑張れば成功するんだという思いがある。これが面白い。現代人、我々の考え方をよく表わしている。

善導大師はこの韋提の中に自分を発見した。私の代表者だ、私のかわりに私の思いを言っているのだと、韋提を自分の代表として頂かれたのが善導である。

これに答えて釈尊は定善散善を説かれている。定善は正しい心、散善は正しい行い。そういうものをやろうというのを善機という。善機とは、頑張らなくっちゃ、やればできるんだ、しっかりやりましょうと定善散善を励む、善人意識の人である。

定善散善は内容からいえば五種正行である。

善導は定善散善の内容を五種正行とした。五種正行は読誦正行、観察正行、礼拝正行、称名正行、讃嘆供養正行という。定善が観察正行、散善は読誦、礼拝、称名、讃嘆供養をいう。定善とは心をひそめて考えること、息慮凝心という。精神を集中して考えていくのである。そして悪い事をやめて(癈悪)、善い事を実行する(修善)。それが読誦(読む、聞くこと)、礼拝(頭を下げて南無阿弥陀仏と申すこと)、讃嘆供養(仏を讃え、お花をあげ、灯明をつけて仏様にお仕えすること)である。定善散善は五種正行の中に入っている。

これが説かれているのは善機のためである。で、五種正行の念仏を作為の念仏という。これがはじめの念仏である。

はじめの念仏は、教を聞いて言われている通りにやりましょうというところに出発点がある。よき師の教を受けて出発するのが初めの念仏である。しかし、念仏だけではなくいくつかある。今五つある。

教を聞かなければいけない。聞いて、自分はどうしたらよいのかということを知らなければいけない。聞くだけでなく考えねばならない。そして実行しなければいけない。本当に聞くこと読むこと、考えること、そして礼拝すること。礼拝合掌し口に南無阿弥陀仏と称えて、お花をあげお香をたき、仏にお礼をすることを実行する。大体この五つになる。

よく質問がある。私は仏法をやろうと思う。よく聞け聞けと言われるが、聞くだけでいいのでしょうか、と。非常にいい質問である。聞くだけでなく何か実行しなければならないんじゃないかと思う。そこに出発点における行き方がある。五種正行の念仏の特色は五つが並んでいる。即ち念仏も五つの中の一つ、色々やる中の一つ。その底に自分はやればできるんだという善人意識というか、善機の意識があり、上品、中品のところにいる。人間として中以上の所にいる。これが特色である。

はじめの念仏は五種正行の一つである。これを作為の念仏という。出発点はこれしかない。

しかるに『観経』を頂くと、下品下生において念仏が出てくる。「ただ念仏」と説いてある。悪機の人の為に説いてある。悪機とは何も善いことをしない一生造悪の人である。上品中品でなしに、下品下生のところに「ただ念仏」と説いてある。これが最後の念仏、義なきを義とすという念仏である。

念仏について『観経』は善機から悪機へ、上品から下品下生へという自覚が生まれなければ本当の念仏にならないということを暗示している。ただ単に念仏するというだけでない自覚の成立がある。現代人我々は、どうしたらよいか教えて下さい、教えて下さればやりますという意気込み、善機の意識を持っている。それが作為の念仏、はからいの念仏、決断の念仏の根本である。本当の念仏は下品下生のところに出ている。そこで、五種正行の崩壊ということが大事な問題である。

五種正行の崩壊とは、私が頑張って頑張ってああやってこうやって念仏していこうという念仏が壊れ去って、そこに南無阿弥陀仏が生まれるということである。

五種正行を自力聖道の行といい、要門の教という。「釈迦は要門ひらきつつ、定散諸機をこしらえて、正雑二行方便し、ひとえに専修をすすめしむ」という和讃がある。要門とは肝心かなめの門である。本当のものに入るには入口がいる。その入口がはっきりすることが肝要である。それを自力の教という。善機の教という、女性的性格の者にはそれしかない。それがたった一つの入口である。肝心かなめに入って行くかなめの門である。その入口から入って行ってはじめて本願他力の教に入り、そこに如来の行南無阿弥陀仏が成り立つのである。

それではどうして善機が悪機に転回し、上品中品の者が下品下生に転回し、ただ念仏となるのかというと、それが三心の教との出合いである。一口で言うと、まごころという問題である。君はまごころがあるかという問いが人間をひっくり返すのである。

求道には山坂がある。一番始めに立札がある。この立札をしっかり読んで行かねばならぬ。一番始めの立札は継続一貫である。途中でやめないで続けなさいということ、これが仏法をきわめる第一の立札である。この立札をよく読んで、最後までやりぬくことが大切。次にもう一つ立札がある。不惜身命とある。命をかけよということである。これは難しい。命をかけよとは抽象的に言えば一生懸命、命がけでやるということになるが、具体的には何か。昔は命がけで聞きに行くということがあった。「おのおの十余箇国の境を越えて身命を顧みずして尋ね来らしめたもう御こころざし」とあるように、遠い所から命がけで来なさるのであるが、今はそのような命がけということはない。危険をおかして聞くというのでなしに、捧げなければならないものがあるということであろう。我々は忙しい忙しいと言って過ごしているが、その忙しい中をひきさいて時間を仏法に捧げて聞くということがなければならない。それが要求されている。それが命がけである。現代の命がけとは、先ず時間を投げ出すこと。も一つ、金を投げ出すこと。これをあまり言うと、お前何か寄附でも貰おうという精神か、ということになるから、あまり言わないことにしているが、ま、最後は金ですね。自分の問題として考えておくべきことであろう。

そうして行ったら仏法になるのかというと、そうはいかない。もう一つ最後に立札がある。それは心根ということである。君の心根は何かという問いかけである。まことはあるかということである。

継続一貫もやってきた。命をかけて、時と金を捧げてやってきた。最後の問題は、まことはあるかである。これが人間をつき崩すのである。

私にまごころがあると自ら言うことができる人はいないのではないか。まごころがあるかと問われた時にあると言える者は、これはまだ自己肯定の域を出ない。継続一貫、命がけというような行をやっていく時、それをやることによって自分の愚かさがだんだんわかるようになる。そこに、まごころありやと問われた時に、自己にまごころなし、本当にお粗末な自己というものを知らされるようになる。まごころであるかと言われて、そんな気持ちになりませんというのは、それはまだあなたがやっていないからだ。山坂をしっかり登らないからわからない。前の二つをしっかりやらねばわからない。それを要門の教という。それを五種正行というのである。そこに念仏もある。それが崩壊しないのは五種正行をあなたがしっかりやらないからだ。やってはじめて第三の立札にぶつかるのだ。そこで私の心根を問われた時に私は転落するしかない。それを「いずれの行も及び難き身」という。いずれの行も及び難き身となって、そこにたった一つ私によびかける如来のまごころ、南無阿弥陀仏。大いなるものに帰れという如来の呼びかけを聞くのである。

南無阿弥陀仏という如来のよびかけが名号である。その本願の名号を聞いて南無阿弥陀仏と応えていく。それが「聞其名号、信心歓喜」である。それを無義為義という。「念仏には無義をもて義とす」という念仏は、求道の果てに最後の問題として説かれているその念仏である。五種正行の念仏と間違ってはならぬ。はじめから本当の念仏の人は一人もいない。この山坂を越して行かねばならぬ。もし最後にそのような天地が開いてきたならば、それを信心といい念仏という。それを他力といい、真実仏教というのである。そこから本当に底ぬけの人間が生まれてきて、殼を破って広い天地を与えられ、小さな自分の思慮分別に執われないで、大きなものの呼びかけを聞いていくという人間が生まれてくる。それを仏法者という。そういう人が次々と生まれてこなくてはならない。そういうことを『歎異抄』は教えている。


ページ頭へ | あとがき(第九、十章)」に進む | 目次に戻る