五、念 仏

『歎異抄講読(第十章について)』細川巌師述 より

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念仏とは仏を念ずること、南無阿弥陀仏と称名念仏することをいう。南無阿弥陀仏と申すところに仏法の帰結があり、南無阿弥陀仏に仏法のすべてがある。これが大事なことなのである。仏法とは何かというと大変に大きなテーマで、一言ではなかなか言うことができない。しかしそれを南無阿弥陀仏という。

仏法は観が中心である。それを観仏と申す。これが中心であるというのが大きな主流である。私が心を静めて心の中に仏を思い浮かべてみる。その仏は初め形をとった仏像というような仏であるが、やがて形を離れて仏の心、仏の精神を考える。そして遂に真如法性の道理を観じていく。初めは仏の形、次に仏の心、そして遂に仏の本源に心至っていく。この観仏というのが仏教の中心であるといえる。現在も禅宗は観仏を中心としている。

しかし、観仏は入り口であって最後は念仏なんだ、仏法は念仏であるというのが浄土門の特色である。

話は変わるが、ずっと前からNHKで「シルクロード」が放映され、最近またスリランカとかビルマとか新しい所も放映されている。私は全部は見なかったけれども、いくつかを見ることができた。中央アジアは勿論、シルクロードといわれる西域の地に、今も非常にたくさんの遺跡が残っていて、多くの仏像が刻まれている。現在は空洞化してただ芸術作品として残っているものもあるが、今も民衆の中に生きているものもある。それがテレビに出て、私は非常に感銘を受けた。ああいう辺境の地にも仏像が刻まれている。その仏像を拝んで仏の心をわが心に感じ取っていく。そして遂に南無阿弥陀仏になる。それが念仏である。私において仏法は何かというと、最後には念仏である。

親鸞は念仏が中心であるということよりも、信心が中心であるといわれ、信心正因といわれた。念仏に中心があると言われるのは法然である。法然は念仏為本、往生の業には念仏を本となす、念仏が仏法の根本であると言われた。それを親鸞は信心が往生の本、信心正因と言われた。法然と親鸞はその主張するところが違っているようにみえる。従って親鸞は念仏を強調されたのでなしに、その根本にある信心を問題にされたのだといわれる。これにも正しい一面がある。が、『歎異抄』をみると念仏ということが非常によく出ている。

『歎異抄』は親鸞聖人の晩年の語録で、日頃言われていたことを唯円が書き記したものである。『歎異抄』には信心と共に念仏ということが各章に出ている。第一章では「…と信じて念仏申さんとおもいたつこころの発る時」とある。また、「ただ信心を要とす」と言いながら「念仏にまさるべき善なき故に」という。そういうふうに信心と念仏というのを並べてある。第二章には「念仏」というのが非常に多く、「念仏より他に往生の道をも存知し」とか、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」とか、「念仏して地獄に堕ちたりとも更に後悔すべからず候」とか「念仏はまことに浄土に…」とか、この第二章はしきりと念仏ということが繰り返されている。念仏が出てないのは第三章だけである。第四章からもまた念仏になっていて、その結びである第十章もまた念仏が主語になって、「念仏には無義をもて義とす」と結ばれている。

それ故、法然上人は念仏中心、親鸞聖人は信心中心と簡単に言うわけにはいかぬ。この二つが離れない不即不離の関係である。一つの球にたとえるならば、その球を前から見たら念仏、後から見たら信心、それで一つである。

行の面で法然は念仏ということを強調された。その内面を信という。信行という。表から言えば行、内面から言えば信。信の方は法然はあまり言われなかった。親鸞はそれを強調された。法然は行の面を言われたが親鸞は法然の更に根本を言われたのであって、信心正因と念仏為本とは対立するものでない。念仏の根本にかくれているものを明らかにされたのが信であって、二つで一つである。信心と念仏とは不即不離である。

念仏は明らかに行である。実行である。称名念仏である。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏申す。これが大切であることを先ずはっきりしておかねばならぬ。仏教を行という点からいえば、南無阿弥陀仏と口に念仏申すに極まる。これが現代人のように多く学校教育を受けた者にとっては非常に不得手であ

る。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称えるのが非常に不得手である。心の問題はわからないこともない。心の問題の究極を自覚という。精神的自覚の上に実践として南無阿弥陀仏が生まれる。現代人としては精神の方に関心を持ちやすい。念仏の方はにが手である。南無阿弥陀仏と称えるのは馬鹿くさいと思う。実行するためには、それがどんな意味を持ち、どのような効果があるかを理解しなければやる気がしない。南無阿弥陀仏とは何ですか、それをやったらどんなことが起るのですか、そういう説明を要求する。これが現代人としては当然のことである。しかし南無阿弥陀仏を説明し、どんな効果があるかを納得いくように話すこともまた聞くことも、非常に困難なことである。従って意味がよくわからないのに念仏するということになる。それはおかしい、それでは理解もせずにやるのかという反発心があって、念仏はどうもビンとこない。しかし世の中には説明のしきれないものは沢山ある。大体行というのは説明しきれないものが多い。

話が少し飛躍するが、昔の修業は大工、左官という職業でいうと、学校を出るとすぐ親方の所へ奉公に行き、仕事を習う。それが修行である。しかし(のこぎり)というのはこういうもので、(かんな)はこうかけて、この時はこういう注意をして…と説明してくれるものは一人もいない。みんな始めは「掃除をせよ」「これを持って行け」とこき使われる。昔の修行はそういうもので、何の説明もなかった。自分が現場の中で右往左往する中で覚え込む。これが修業であった。これは東洋だけでもなさそうである。ゲーテの「ウィルヘルムマイスターの修業時代」でしたか、そういうのを見ても昔は職人は皆説明ぬきで鍛えられた。

我々は説明を受けて納得したらやってもいい、しかし、わけがわからないのに唯ナマンダ仏と称えよと言われたらもうやれない。わからなくても初めからやらせる、こういう行き方は現代人には適応しない。即ち行といえばやはり理解が必要であると思うのが普通である。

理解できて実行しようとする時決断が必要である。また、それをやりとげようという継続心が必要である。それには努力を要する。その行が最後は身について、いわば自然の行になる。これが達成目標である。行が身につくにはこのような過程が必要と思われる。この理解、決断、継続一貫、これをはからいという。はからいを持ってやりながら遂には、はからいなしという境地に達するのが行の理想的な行き方である。

例えばお茶にしてもお点前というのがある。お茶を頂くにはお茶碗をこう持って、左へ廻して半口口に入れて…と気にしてやっていると、我々には茶の味はしない。本当にお茶のできる人はそれが自然にできる。我々にはお箸を持って御飯を食べるのは自然である。この指とこの指の間に箸を入れて、これ位の高さに持って食べるんじゃというようなことは考えたこともない。「おいしいね」などと言いながら箸のことなど忘れている。それが本当に箸を使っているということである。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏が遂に身について自然の行になる。最後はそうならねばいけない。初めははからいといい、義という。念仏も初めは義。理解を要し努力を要し継続一貫を要する。また、純粋無雑の念仏でありたいと思う。妄念妄想にふけって言っているのでなく、純粋にナマンダ仏ナマンダ仏と言い、心のこもった念仏でありたいなどと考える。これもはからいである。実行する上での継続一貫、努力もはからいであり、また、念仏する心の内容、あり方について考えるのもはからいである。義は宜なり。宜というのは正しい、宜しいという意味である。どれが本当か、どれが正しいかを考えるのを宜という。これは第八章の「念仏は行者のために非行非善なり」というところに、「わがはからいにて行ずるにあらざれば非行という」とある。そこでも申したことである。

一般的にはこのように理解、決断、努力という過程を進んで実行が生まれる。初めははからいに満ちているけれども遂に頑張って頑張っていったならば、純粋な念仏とか身についた念仏とかを考えなくてすむ自然の念仏が、口からあふれ出るようになるだろう。それが最終的な念仏であるとこう考える。これが間違いである。

どこが間違っているのか。念仏というものが人間の行、私の行であると考えられている。そうではない。念仏は如来の行である。私共が行として行じてゆけば遂に純粋なものになるのではない。そういうのはエスカレートといって、だんだん上がって行ったならば一番高い所に届くことができるという考え方である。理想主義といわれるものである。これも大事で現代は先ず理想主義をふるい起こさなければならない時代であるから、これをいけないと言ったのではどうにもならない。が、人間の行をどんどん積んでゆけば遂に本当の行に達するのではない。ここが一番わかりにくいところである。

人間の行と如来の行。我々は南無阿弥陀仏は私が称えて念仏する、私が称えなければならぬ、私が称えるから念仏になる、私の行であると考えるが、そうではない。南無阿弥陀仏は如来の行なのである。

如来の行について言っておこう。如とは一如。これこそ説明できないがロゴス(ギリシヤ語)、真如(仏教)、天(儒教)、その他色々な言葉で言われる。大きな世界である。

小さい私がいて、この私に如なるものの絶え間のない呼びかけがある。大きなものが小さなものに対して常に呼びかけている。その呼びかけを如来本願という。南無阿弥陀仏という。南無は帰れ、来たれである。共にあれである。阿弥陀仏は大いなるもの、無限なるもの、永遠なるものをいう。アミタユース、アミターバーという。大いなる世界に帰れと私に呼びかけてやまない如来の呼びかけを南無阿弥陀仏という。それを如来の行という。私が念仏する、しないにかかわらず、大きなものは常に呼んでいる。その呼びかけが南無阿弥陀仏である。その南無阿弥陀仏が私に届く。いかにして届くかといえば、私に先がけて南無阿弥陀仏をすでに生きている人、如来本願に触れた人、一番初めは釈尊、それを受けついで龍樹、天親と次々と受けついだ三千年の伝承がある。この歴史の中で本当に如来の呼びかけを聞き開いた人を通して呼びかけられているものを南無阿弥陀仏という。それに触れて、その大きなものに対する私の応答が生まれる。その応答を南無阿弥陀仏という。これを念仏というのである。如来の呼びかけを名号という。名は名告りであり、号は叫びである。大きなものの呼びかけである。南無阿弥陀仏と呼びかけられているのを南無阿弥陀仏と応えていく。そこに如来の行が私において私の行となる。ここに無義ということがある。私の決断を要しない、私の理解、努力を要しない。はからいがない。こういうものが成り立ち、身についたもの、それが仏法である。

無義為義(義なきを義とす)「念仏には義なきを義とす」の「念仏」は無義である。『歎異抄』で言われている念仏はこういう念仏である。我々が行じていく念仏でなしに、如来のよびかけを聞きぬいたところに生まれる応答としての念仏である。

「無義」の義は、はからいという。これは親鸞聖人が方々で言っておられる。『末灯鈔』には「義と申すことは行者の各のはからうことを義とは申すなり」とあり、尊号真像銘文にも、「義というは行者のはからう心なり、この故に自力というなり」とある。自力のはからいとはこれである。既に申したように自力のはからいとは、一つには我々の努力決断、一つには純粋になりたい、真実でありたいという心をいう。

自力のはからいとは、深い知性の働きである。これが仏法では問題になる。なぜなら知性は心の底の深い自己肯定である。やればできる、頑張ればやり遂げることができるんだという自己肯定である。それが反省されないところに問題がある。しかしこれはみんな持っていて、これを取り去ろうとするのは無理である。また自分だってやれば出来るんだというものをみな持っているから生きてゆけるんであって、お前はどれ程頑張ってみてもつまらないぞと言われたのでは、それこそ立つ瀬がない。だからこの自己肯定の心を取り去ろうというのは不可能である。かえってこれはしっかり持たせなければいけない。君はやればできるんだというのが教育の根本である。しかし、実はこの自意識が人間の大きな殻であって、それを出なければいけない。それが仏法の問題である。仏法はそれを要求している。

自力のはからいとは、深い自己肯定の上に立っている知性の働きをいう。純粋でありたい、真実でありたいというのもはからいという。念仏はこのようなはからいでやるのではない。これを無義という。「念仏には無義をもて義とす」という。

この「義とす」の義は何か。東本願寺系統の多くの人は、正しい道理と訳してある。念仏においては知性の働きを超えた世界が本当の道理の世界である、と。西本願寺系の人は多く、義とは如来のはからいであるという。これは後に述べる。

無義、義なしの無とはどういうことか。義をなくするのか。私が持っている知性の働きを放棄して、考えないでただもう南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と無我夢中でいうか、一心不乱に何も考えないでやるのか。或いは私の思いなど無視するのか。そうではない。大体そんなことはできないことである。人間は思慮分別、考えることをやめることはできない。もしできるとすればそれは盲信狂信である。健全な人間であるならば考えるということが人間の根本であって、知性の働きをなくすることは言うべくして出来ることではない。知性をなくしようというのが、そもそも知性の働きである。煩悩をなくそうという時、それ自体が煩悩の働きである。煩悩をなくそうと思うのは煩悩があると困るからである。すぐ腹が立ったり欲をおこしたりするから、それでは困る。だからなくそうと思う。思うこと自体が煩悩である。

昔、旧制高等学校というのがあり、被っている帽子は弊衣破帽といって破れたくっていた。腰にぶら下げた手拭いは醤油で煮〆たようになっていた。それはなぜかというと、質実剛健の人は立派なものを着たりしないで、破れたくった物を平気で着ているという意味だった。だがそこまで汚くなるのには時間がかかる。一年生の時買うのは新しいのを買うのであるから、それを古いように見せかけるのが大変である。その帽子を持って一生懸命コンクリートの上をこすってボロボロにせねばならぬ。手拭いも新しいのでは困る。新しいのを泥につけて泥まみれにして使うということになる。弊衣破帽ということが既に名利である。名聞である。今頃はジーンズというのがある。そればかり着ていてよく働いた結果としてすり切れたのが意味があるのだろうが、よく見ると初めからすり切れたようなのを売っている。そこに既に虚栄がある。見栄を超えているように自分を見せかけたいという見栄があってそうなるのである。

要するに我々人間の持っているはからいを打ち破ろうというところにはからいがあるといわねばならない。はからいを取ろうとすること自体がはからいである。

それでははからいなしとは何か。我々はドングリみたいなもので、殻の中に閉じ込められている。この殼が知性の殼であり、思慮分別の殻である。この殻は我々の命であるからこの殻を破ってしまうことは我々の存在そのものの否定である。なくすこともできないが、なくそうと思うこころ、それがそもそも無理なはからいである。

しかしながら仏法は無義である。無義が成り立たねば仏法にならない。そのためには殻を破るのでなく、このドングリが光と水を吸収して発芽して、自然に殻が破れる。無義とは、はからいを無くすのでなく、生まれかわり、真の進展、生長において成り立つ事実である。ドングリが発芽し、卵がヒヨコになり、おたまじゃくしが蛙になるというような生まれかわり、進展の所に生まれる事実である。今まで念仏は私が決心し、私が努力して念仏していくというものであった。それが生まれかわりによって大きなものの働きに目がさめて、南無阿弥陀仏、南無阿無陀仏とはからいのない念仏に変っていく。ドングリから苗木に変っていく。殼をなくしようとして殻がなくなるのでなく、はからいをなくしてはからいのない念仏が生まれるのでなしに、われら自身の生まれかわり、あなた自身の真の成長によって無義が成り立つ。

私達はずい分無理なことを考える。善い心を伸ばして悪い心を無くしようという。言うのは言うのだが、一体そんな事ができるのか。善い心と悪い心の二つが別々にあれば、善い方を伸ばし悪い方は無くしていくことができるかも知れない。しかし心の中では両方がどろどろに混ざっていて、私というものが善悪で成り立っている。いわば清らかな水の中に黒インキが一緒になっているようなもので、それを別々に考えるところに無理がある。

はからいを捨てて正しい道理に立つ。それが進展していく道のように考えられるが、ドングリがどうして自分の力だけで成長することができよう。光と水がなければできない。それらは自分でなく他である。太陽という遠い所にある根源からの光が、そして水が私に働きかけて私が成長する。光とは如来、尽十方無碍光如来である。水はよき師よき友、即ち既に光から生まれたもので働きを持っているもの。

このよき師よき友からよき教を頂いてはじめて成長がある。そこにやがて無義が生まれてくる。そこに生まれかわりがある。小さな知性に執われず、人間の論理にふり廻されないで大きなものの前に合掌する人間が生まれて南無阿弥陀仏になる。これが仏法である。「念仏には無義をもて義とす」とはこのことである。

我々は初めは理解し決心していくという知性のところにいる。それがいかにして無義となるか。このゴールに至るのにはどうしたらよいか。これがはっきりしなければ仏法成就にならない。これを仏法方法論という。どうしたらそういう天地が私のものになるのかという問題である。これは必ずしも『歎異抄』第十章の問題ではないかも知れないけれども、それを言っておかないと抽象的な、理想的な論に終るであろう。そのことを後で申したいと思う。

無義為義ということについて今少し申し上げる。

僧叡という人がある。『観海篇』という中に次のように言われている。直接原文を見たのではないので紹介になりますが。

「上の義(無義の義のこと)は行者の構画をいう。義なきとは行者の構画を棄つるなり」。構は構想、気がまえ、考え。画は計画、画策。ああであろう、こうであろうと心の中に思い描いて考えるのを捨てる。これは親鸞聖人のお言葉に基づいている。そういうものを棄てるのを義なしという。

「下の義は如来の作為をいう。義とすとは、如来の作為に一任するなり。故に義なきを義とすとは、自力をすてて他力に乗ずることをいうなり」という。

僧叡によると、無義為義の「無義」の「義」は、人間の思慮分別(自力)、「為義」の「義」は如来の働きという。先には無義の義は人間のはからい、為義の義は正しい道理であると申した。従って二つの説があるといえる。即ち無義の方は同じ。為義の義については、正しい道理という説と、如来の働きという説と二つあるといえる。僧叡という人はお西の系統の人で、お西の人は大体この如来の働きという説をとっておられる人が多い。お東の人は正しい道理というのをとっておられる人が多い。

しかしながら二つの説は一つであって、私は一緒に考えた方がいいと思う。即ち、人間の思慮分別を超えて、人間が本当に殻を破っていくところに仏法の正しい道理がある。それは人間の働きでなしに如来の働きである。こう言えば二つ一緒になる。どちらもいいところを言ってあるので、それを一緒にするとはっきりすると思う、「念仏においては人間の思慮分別で理解し決断し努力していこうというところから離れて、本当に広い天地に成長していく。そして人間のはからいを離れるということが正しい仏教の道理である。これが本当の仏教であって、これは如来の働きなのである」。第十章はこういう意味になる。


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