三、念仏、他力、誓願

『歎異抄講読(第十章について)』細川巌師述 より

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「義なきを義とす」という言葉は、親鸞聖人の晩年によく現われるお言葉で、それ以前には殆んど出ていない。『教行信証』の中にはない。八十才台のご年令になったお手紙の中でよくつかわれている。そこには二通り言ってある。

「他力には義なきを義とす」と『末燈鈔(まっとうしょう)』(21-2)にある。「如来の御誓なれば『他力には義なきを義とす』と聖人の仰言にてありき、義ということは計うことばなり、行者の計は自力なれば義というなり」。ここにある「聖人」は法然上人のことで、親鸞は聖人と言っておられる。上人はすぐれた人、聖人はひじりであり、聖人の方が尊敬した言葉であろうが、この字が使ってある。今は「他力には」というのが特色である。

また、別のお手紙には「また他力と申すことは義なきを義とすと申すなり、義と申すことは行者の各の計うことを義とは申すなり、如来の誓願は不可思議にまします故に、仏と仏との御はからいなり、凡夫のはからいにあらず、補処の弥勒菩薩を初として仏智の不思議を計うべき人は候わず、然れば『如来の誓願には義なきを義とす』とは、大師聖人の仰に候いき。」とある。

『歎異抄』の他では「他力には」「誓願には」と言われ、『歎異抄』では「念仏には」となっている。ここが『歎異抄』の特色である。

他力とは如来の誓願をいう。他力も誓願も如来に属する。一方念仏は一応われらの上の称名念仏の行、私共の行ずるものがらである。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏申すことである。私が申す念仏が、計らいなしとなるのが本当の道理であり、そこに如来の御働きの成立している場がある。念仏について言ってあるところが第十章の特色である。

この南無阿弥陀仏が大変大事である。しかし非常にわかりにくい。「南無阿弥陀仏」と念仏することが私の決心でもなければ、私の努力でもないという所に『歎異抄』のつづまりがある。仏道の成就がある。ここが『歎異抄』第十章の非常に大切な、すぐれたところとなっている。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏申す、それがはからいなく申されていくところに如来の御はからいがある。これはまことに他にないすぐれた表現である。

現代という時代で非常にわかりにくい言葉の一つは、念仏申すということ、「南無阿弥陀仏」である。念仏という意味が大変にわからない。また、浄土というのがわからない。一応浄土とか他力とか誓願とかは、我々の外にある向こう側のものである。が、念仏は私の行である。私の口で称える南無阿弥陀仏である。これが本当にわかると我々における行が成り立つ。南無阿弥陀仏が申されるところに本当に仏道の成就がある。親鸞聖人の宗教というのは、つづまるところ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏申す身になることである。これは大事なことで、何度もくりかえして申し上げねばならぬことである。

現在、念仏を勧めるとか、念仏の意味を明らかにする人は非常に減った。自覚とは何か、人間性とは何かというようなことは色々と説かれているけれども、念仏申すというところに仏道成就があるのだというようなことは言う人が少ない。現代人には念仏がビンとこない。そこに浄土真宗の大きな課題の一つがあろう。

亀井勝一郎氏の『愛の無常について』のはじめに、人間生成ということについて述べてある。人間が小さな殻を脱して大きな世界に生まれ変わる過程は、次のようなものであるという。

第一に考えるということ。我々は考えることなく一日々々がくり返しで終っている。昨日のくり返しが今日であり、去年のくり返しが今年になっていて、考えないままで時がたっている。何を考えるのかというと、私はこれでよいのか、私の行き方はこれでよいのかと考えねばならない。これは全く人間のはからいであり思慮分別であるが、このように人間の智性をもって自己について考えていくということが出発点である。これは自力であるが、自力が出発である。自力が悪いのではない。自力がなければ他力は出てこない。

そして次にあれやこれやと迷う。思い迷って求めるということがあり、尋ねるということがあり聞くということがある。第三に、かくあれかしと願う一念の発起という。どうしても解決したいと思うようになることが大事である。そして遂に出合いである。よき師よき友との出合い、そこで本当に私が育てられる。ここまでが自力である。自力がなければ進展しない。自力であろうが何であろうが頑張らなければならぬ。

第五に一つの言葉を持つこと。本当によき師よき友に出合い、本当に教を聞いていくことが、一つの言葉に出合うことである。そこに宗教が成り立つ。

金子大栄師は「宗教とは生涯をかけて悔いることのない一つの言葉との出合いである」と言われたという。真理を物語ったお言葉ですね。宗教とは何かというと、宗は大もと、いのち。私を成り立たせる本当の生き方を教えるものが宗教である。それは私の人生の全てを投げ込んでも決して悔いることのないもの、よかった、有難うございますと感謝せずにはいられないようお言葉との出合いである。一つの言葉との出合いである。そこに私の生涯を注いでそれを本当に頂き貫く、そこに私の生活の根本があるのだとわかる。これが大事である。

キリスト教でも同じである。「ヨハネによる福音書」でも、「はじめにことばがあった」という。その言葉と出合うことが根源に出合うことであり、根源にあうことが一つの言葉を頂くことである。

この言葉とは何か。ことばは語りかけであり呼びかけであり、叫びであり願いである。私に対する深い語りかけである。それが言葉の本質である。何か抽象的な静止したものではない。あなたが何か言葉を言うてみなさい。それは必ず誰かに対する語りかけになるから。何かを言いたい。それが言葉の本質である。

母親と子供がいる。母親は黙っていることはない。必ず子への言葉、語りかけを持っている。言葉がないのは母親でないからである。「今日は赤ちゃん私はママよ」という歌もある。これが母親の切なる語りかけで、いいところを言っている。言いたいことがある、語りかけ、願いがあると、そこに言葉となって出てくるのである。

私の小さな保育園には0才から五才までいる。二才位になるとまだうまくは言えないが、「えんちょうせんせい」と言って私の所に来る。手を握ったり「お早よう」と声をかけてやると、とても嬉しそうである。顔を見るとその心がすぐわかる。私はもとは子供が煩わしくて好きでなかった。勉強の邪魔になるから孫などが来てもにらみつけていた。子供には関心がなかった。が、ある時から子供に興味を持つようになった。小さい時から教えなきゃならん、ぜひともあの子たちに言っておかねばならぬことがある。小さい時から、合掌して仏様にお参りすることだけはぜひとも教えておきたいと思って、「しゅうちゃん元気かい」と声をかける。今も忙しくないことはないが、思いがあるから暇をつくってはことばをかける。

ことばとは、これだけは言っておきたい、届けておきたいという願いがあると、その思いが語りかけになって出てくるのである。小さな小さな存在である我々に、常に語りかけ呼びかけているものがある。それを「ヨハネ伝」は非常にうまく言っている。「はじめにことばがあった」。人間のいるところ、そこに呼びかけがあった。

その言葉に出合うことが、その中にこもる願いに出合うことである。よき師よき友との出合いを通して一つの言葉に出合う。大きな大きなものが小さなものに対して呼びかけずにはおれぬ、語りかけずにはおれぬもの、それを南無阿弥陀仏という。「汝小さな殼を出でて大いなる世界に出でよ」、その呼びかけを南無阿弥陀仏という。そこに大いなるものの願いと心がこもっている。その願いを本願という。本願の具体的な姿が南無阿弥陀仏である。

南無阿弥陀仏が本当に私にわかることを、一つの言葉を持つという。南無阿弥陀仏と呼ばれているから南無阿弥陀仏と応える。応答する、これを念仏という。ここに人間形成がある。亀井勝一郎氏は人間生成と言われた。

我々は始めは思慮分別し、決断をもって南無阿弥陀仏というのである。しかし最後にはそこに無限の願いがこもっていることを知り、向こうの気持ちがわかって私が南無阿弥陀仏と応答するところに、遂に他力の念仏となる。

「本願には義なきを義とす」「他力には……」でなく、『歎異抄』では我々の側に立って「念仏には無義をもて義とす」と出ているところが面白い。「如来の誓願には義なきを義とすとは大師聖人の仰せ……」「他力には義なきを義とすと聖人の仰言にてありき」と繰返し親鸞聖人が言われているから、法然上人がどこかで申しておられたに違いない。が、上人の書かれたものを全集で見ても載っていない。書かれたものの中にはないけれども、仰せになっていたのに間違いない。よくよく見ると、よく似た言葉がある。

(1) 熊谷次郎直実が出家して法然上人のお弟子になり蓮生房という。この人にあてられた手紙の中に、「浄土宗安心起行(あんじんきぎょう)のこと、(義なきを義とし)様なきを様とす、浅きは深きなり。」とあるそうである。私が調べたのにはなかったので、一応()に入れておく。

この意味は、往生浄土の一門において、信心、念仏ということについて申し上げると、一つのきまった型があるのではない。おきまりの型がないのが本当の(さま)なのである、ということであろう。

たとえばもみじが散る時に、ひらひらと右に何度傾いて左へ何度で散るのが本当の散り方だということはない。そんな型があるのではない。どんな散り方をしようとも様になっている。作為的にこういう型が本物だというところには本当の教はない。「様なきを様とす」である。これが「義なきを義とす」というのと対になって言われている。

宗教を学ぶ者はある種の型を考える。本当に信心を得たら大きな感銘を受けて涙を流して「有難うございました」と頭を下げて合掌礼拝し身を投げ出して喜ぶのが本当だという人もいる。その人はそういうのが信心だと思っている。これはもみじの散り方が右に三十度左に四十度というのと変らない。それは間違いである。色々な散り方がある。ポトッと落ちることもある。型に執われているところが間違いである。

雨が降る。ザーザー降る雨もあればしとしとと降る雨もあり、音もなく降る雨もある。どれが本当の雨かといっても、皆どれも本当の雨である。それを何やら型をつけてそれに執われる人が多い。

法然上人は本当にいいところを言われている。「浄土宗安心起行のこと、義なきを義とし様なきを様とす」ただ南無阿弥陀仏である。

法然上人が四国に流されなさった時、港に遊女が来て言った。「私のような者も弥陀の本願でお助けにあずかれましょうか」「私のような者でも助かるのだから、あなたが助からぬ筈はない。念仏申しなさい」「それではこのようないやしい稼業はやめて念仏申した方がよろしいのでしょうか」「やめられるならやめて念仏申しなさい。やめられなければそのままで念仏申しなさい」と、上人は徹底しておられる。我々はかくあるべき型があると思う。しかし、いかなる所でどんな姿ででも念仏申すということが、様なきを様とすであり、義なきを義とすということであると言われるのである。

浅きは深きなり。人間の知性は、深いものが深く浅いものは浅いと思うが、そうではない。本当は一見ただ南無阿弥陀仏と申しているような、非常に浅い浅いようなところに、実は深い深い仏法の道理が成り立っているのである。深い本願が浅い相で出てくるのだということを、見事な言葉で「浅きは深きなり」と言われている。頂くべき言葉である。蛇足をつけ加えるならば、「浅きは深きなり、南無阿弥陀仏」であろう。

(2) 明らかな文章としては、『和語灯録』第五巻に次のことばがある。

「本願の念仏にはひとり立ちをさせて(すけ)ささぬなり。助さすほどの人は辺地に生まる。すけと申すは智慧をも助にさし持戒をも助にさし、慈悲をも助にさすなり」。

これは「義なきを義とす」とは少し遠うけれども、非常によく似ている。上人はこのようなことをしきりと言っておられたとみえる。本願の念仏、本願は如来の我々への深い深い願いであり、たった一つの呼びかけである。それが私共に届いて念仏申す、これが本願の念仏。助は、たすけ。木を植えた時には、木に助をさしてやらねばならぬ。私は保育園に木を植えた。高台なので防風林にするために槙の小さいのを五、六百本植えた。一本々々竹を立ててくくりつけた。竹が助になってはいるがなかなか伸びない。槙の木のまわりに他の木(自然に生える松や桧の苗)を混植した。すると少し成長が違う。一本の木を植えるならばその木がしっかり根づくまでは、しっかり助をさしてやらねばいかん。そうしないと独り立ちしないのである。

本願の念仏においては独り立ちするということが大事である。独り立ちしないのは自力の念仏であって、浄土の片ほとりにしか生まれない。浄土の中に迎えられるのではあるが、中心をはずれた辺地解慢というところに生まれるのである。

智慧は我々の知性である。知性でもって、よくわかった、よくわかったから大丈夫。反対から言うと、まだわからんから駄目。まだ領解しなければならんと思う。南無阿弥陀仏が独り立ちしない。何か様が欲しい、智慧による理解、領解が必要で、有難いとか相済まんことと思わなければならない。感動しなければならぬとか、何かを必要とする。これを助をさすという。私の日頃の生活で腹が立たなくなった、おだやかになって対立がなくなった、毎日勤行できるようになった。だから私の信心は確かだと、私の領解で支え、私の生活で支える。私が愛情をもって人に接することができるようになったというのが、私の信仰の支えとなる。

助というのが義である。義なしが助ささぬことである。真の念仏、信心、安心起行は、それ自体が独立して、私が何もそれに助をささない。ただこれ南無阿弥陀仏である。そこが法然上人の『和語灯録』のことばである。

「義なきを義とす」という言葉は見当らないが、『和語灯録』には助ささぬ念仏とあり、強いて言えば助ささぬ信心である。熊谷直実にあてられたお手紙には「様なきを様とす、浅きは深きなり」とある。こういうところから推して、確かな文献としては今日残っていないが、「義なきを義とす」と法然上人が日頃おっしゃっていたのであろう。

「念仏には無義をもて義とす」「誓願には義なきを義とす」「他力には義なきを義とす」と親鸞聖人が言われた根拠は、法然上人にあるのだと申すことができる。

今回は第十章の位置と、この第十章に全体のつづまりがあるのだということを申した。「念仏には」の念仏という所に非常に意味がある。法然上人にはこのような教があるので類推して、いうことができる。

 

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