二、第十章の位置(第十章の持つ意味)

『歎異抄講読(第十章について)』細川巌師述 より

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『歎異抄』は先ず前序から始まっている。「ひそかに愚案をめぐらしてほぼ古今をかんがうるに……」。『歎異抄』は非常な名文であり、日本の古文の中でも実にすぐれた文章であって、一字一句無駄のない圧縮された、流れるような文章である。しかもただ美文というだけでなく惻々(そくそく)として胸を打つものがある。特に前序や第九章はすぐれた名文である。そのうち第一章から第十章までが「顕正篇(けんしょうへん)」(「師訓篇」ともいう)といわれ、聖人の正しい信心が明らかにされている。

第十一章から第十八章までを破邪篇(異義篇ともいう)という。あとに後序がある。このような構成になっている。

前序が前書きであり、経典では序文という。序文とは序論で、なぜこういう書物を書かねばならなかったかという理由が述べられている。本論を仏教語では正宗分という。その本論の内容が、前半は正しい親鸞の信仰、あとの半分は間違いを歎かざるを得ない異義を述べてある。そして最後の結論が後序であり、仏教語では流通分という。魚で申せば頭が序分であり、魚の主体が本論(正宗分)であり、尾が後序(流通分)である。しっぽだからつまらないのではない。しっぽが全体の結論なのである。

了祥という方はこれを二枚屏風にたとえられた。右が顕正篇で左が異義篇、この二枚で『歎異抄』の本論が成り立つ。そのちょうど真中のかなめになるところが第十章であると言われている。第十章が顕正篇を成り立たせ、更に異義ということを言う一番基礎になるものである。二枚扉風の合わせ目であるという。これを成上起下という。

この構成からみると第十章は、『歎異抄』の本論の真中にある。顕正篇(師訓篇)のしめくくりであり、異義篇の直前にある。これを成上起下という。成は成就する、成り立たせる。上即ち正しい親鸞の御信心、即ち第一章から九章までを成り立たせる総しめくくり。起下は、異なることを歎くという異なりが、何と異なっているのかという鏡を出す。即ちこの第十章が鏡となり、以下はこれと異なっているのである。「念仏には無義をもて義とす」、はからいなしというのにはからっている、人間の思慮分別が入っているというのが異義である。異義のおこりを起すので起下という。ここが第十章であって、大変大事なところである。

第一章の中心は「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」である。実にすぐれた文章であり内容である。それが「義なきを義とす」ということの具体的内容である。第十章の「義なきを義とす」というのが、九章までの各章を成り立たせている。同時に、第一章から九章までが第十章の具体的内容である。

第二章では「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」とあるが、これがまた「義なきを義とす」の具体的内容である。第三章には「他力をたのみたてまつる悪人」が「義なきを義とす」の内容である。

第九章では「他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけり」が、「義なきを義とす」の具体的内容である。

これらの総まとめが第十章の「無義為義」である。第十章は短いけれども大切なところである。

『歎異抄』の全体は前にも申した通り、一貫した縦糸でつらぬかれている。それが第一章「弥陀の誓願不思議」である。弥陀の誓願不思議がぬきになったのでは『歎異抄』は成り立たない。色々な参考書があるが、「弥陀の誓願不思議」が明らかになっているかどうかが、本当に『歎異抄』の参考書になっているかを見わけるポイントである。

しかしながら縦糸だけでは織物はできない。横糸が必要である。しかし縦糸がしゃんとしていれば横糸はどんなものでもかまわない。その横糸が縦糸に織り込まれて織物ができる。この横糸の代表が第九章である。「かくの如きのわれ」、「こういうていたらくの私」である。この現実を機という。弥陀の誓願という法に私の現実という機が織り込まれていって、機が法にたもたれ支えられて、そこに『歎異抄』ができている。

代表して言えば第一章と第九章、抽象して言えば法と機、弥陀の誓願と私の現実である。この縦糸と横糸からできている全体が「義なきを義とす」ということである。

これが第十章である。われらのはからいを超えたところに正しい道理が成り立ち、仏法の道理が成り立ち、本当の信心が成り立ち、道が成り立つ。そういう世界にぜひとも出したいというのが如来のはからいなのである。これを「念仏には無義をもて義とす」という。第十章の重要性を申しました。

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