四、はからい

『歎異抄講読(第十章について)』細川巌師述 より

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法然のお言葉と義とは、はからいである。はからいがあるというのが異義の根本、そのはからいとは何かが、大事なことである。

末灯鈔』(21-7)には「また他力と申すことは義なきを義とすと申すなり、義と申すことは行者の各の計うことを義とは申すなり、如来の誓願は不可思議にまします故に仏と仏との御はからいなり、凡夫のはからいにあらず補處の弥勒菩薩を初として仏智の不思議を計うべき人は候わず、然れば『如来の誓願には義なきを義とす』とは大師聖人の仰に候ひき」とある。

はからうとは、知性でもって私の念仏がこれでよいのかどうかを考えていくことをいう。思慮分別である。色々と考える、配慮する。これでよいのだろうか、も少ししっかりしなければいけないのではないかと考えるのをはからいという。

はからいというのは一面大変大事なことである。この頃のように自分の考え一つで、無反省に無思慮に無分別に暴走してやっている人もたくさんいる。従って先ずこのはからいができる人というのは、充分立派な人であると言わねばならない。

『新しい母の本』というのがある。北海道のお医者さんで北島という人が書いている。朝日新聞社から出ている。これを見ると面白い。この中の一節に、「人でない人」というのがある。人間でない人間である。これはどういう人かというと、形は人間の形をしているが、その人の性格に欠けるところがあって、本当に人間と言えない人間である。そういう人が今非常に増えている。名前は忘れたが何とかいう心理学者が、青年から乳幼児まで調べて性格を分類してみたら、人でない人がたくさん生まれているという。

人でない人というのを大体二つ言っている。一つは自立できない人、も一つは社会性を持たない人。自立できない人とは、無感動、無反省、無忍耐。感動がないとは喜びがない、浅い喜び、浅い悲しみ。本当の人間というのは物を感じとる力がある。悲しみ歎き、喜びというように、感動する力を持っている。そうでない人は人でないんだという。また、愛するものを持たないという。人を愛せず物を愛せず花を愛せない。そして無反省、自分を省みる力がない。忍耐力がない。この四つをあげている。

ちなみに申しますと、新しい母がこの頃大変増えているという。著者は北海道の小さな町のお医者さんである。新しい母とは、古い母親の反対である。古い母親というのは子がお腹にいる時から、私の子供というものに愛着を持ち、愛情を持っている。が、今頃の母親はだんだん変ってきたんだと書いてありますね。自分の子供に対して違和感を持っている。何となく打ちとけない.どうして生まれたんだろうかと思う。私の子供ということになかなかならないんだとある。そういう母親がふえているという。その母親のための本である。

社会性を持たないというのは、殻に入って友がない。更に一つの目的意識を持たない。いよいよ頑張らなくちゃという努力、目標を持たぬ。人と一緒に協調できない。まことに現代は人でない人がふえたと言わねばならない。「私にかかわりのない事で」というのは無感動のうちに入る。たとい我々は力はなくとも、怒りを感じ喜びを感じ、感動するということがあるのが本当の人間としてのあり方だという。感動のなくなった所に人間性がなくなっている。愛するものを持たぬ、反省を持たぬ、そこに人間を失っている。

要するに思慮分別、考えるということがあってはじめて人であって、従ってそういう点から言えば、はからいは大事であり大いに強調しなければならないものである。

それであるのに念仏においては、はからい無しということが大事なんだとなると、非常にわかりにくい。この所をよくわからなければならない。

はからいの根本は人間の理想主義的考えである。これは非常に大事な行き方である。理想主義とは、私もあなたもやればできる力を持っている。だから目標を立ててやりましょう。そうすると一歩々々近づいて行ける。このように自己の可能性を信じて努力し、更に努力していく。努力を積み重ねて一歩々々理想に近づいていこうとする。しっかり考えていけばやがて正しい考えに到達し、やれば必ずできるんだ、皆その可能性を持っている。従って努力と継続が大切だと心にきめて進んでいこうとする。そこに理想主義がある。これこそ人間の第一歩の踏み出しでなければならぬ。これがはからいである。

はからいを内容的にいうと、第一に考えること、先ず知性で、先入観を捨て打算をかなぐり捨てて、それは何かと考える。次に本当にそうなのかと実証することを大事にする。観念的なところにとどまらないで、人が言ったから自分もそうだというのでなく、自分で実証してみる。即ち権力に屈せず、『バイブル』やお経の権威で押さえつけられるのでなしに、本当にそうなのかと自分が実証していくということでなければならない。そういうのを合わせて、考えるというのである。

現代という時代は考えない時代であり、考える力を失っている時代だと思う。

大内力という人(元東大教授、現在は信州大学教授)が停年退職して、去年(昭和55年?)四月頃「学士会雑誌」に書かれた論文に、「日本の未来に学問はあるか」という副題が出ていた。自分は三十年教えてきたが、東大の学生でみる限り、現代の学生は考える力がない。考えようとしない。いつも答を出そうとする。問いを持たないという。こういうことでは日本の将来にもう学問は起こらないのではないかと思うと、大変厳しく言ってある。ほかにもそういうことをしきりに言っている人がある。はからうということは大事なのだ。

はからいの第二の意味はよしあしである。それは善いことか悪いことか。今私がやろうとしていることは、或いはやったことは、本当に善い事かどうかを倫理的に考える。或いは、あれは有効だったろうかどうだろうか、意味があったのだろうかどうだろうかと考える。それをはからうという。意味があるか、善と言えるかどうか、役に立つかを考えるのをよしあしという。これも大事なことである。これを理想主義の行き方という。今は先ずこのことが強調されねばならぬ時代である。

『歎異抄』はこれに対して無義為義ということをいう。念仏においてははからいなく、はからいを離れることが正しい道理であり、これが仏法の本当の意義であるという。だから非常にわかりにくい。それは、はからいはつまらんと言っているのでなく、われらははからいから出発するしかないが、はからいである限り本当の仏道は成就しない。はからいから出発して遂にはからいを超えねばならない。

卵がある。卵の中味は黄味と白味と胚から成り、どろんとしたものである。これが出発点、親鶏がそれを抱いて熱を加えると目玉ができ嘴ができ足がはえ、毛並が揃ってヒヨコになる。ヒヨコになって殻を破ってはじめて本当の脱皮ということがある。成長がある。卵が出発点である。そこを超え離れたところには、全く殻のない異質なものができている。それが念仏である。

念仏においては、はからいから出発してはからいを超えるということが本当に大事なことなのである。その途中は未だ殼の中の存在である。『歎異抄』の第十一章からあとに出てくる異義というのがこれである。まだまだ知性中心の所にとどまっている。はからい、よしあしでとどまっている。

『歎異抄』は、大体『観無量寿経』の色彩が強い。どの章にも念仏ということがたくさん出ていて、『歎異抄』の中心になっている。念仏が出ているのは『観無量寿経』である。『大無量寿経』には念仏は出ていない。『観無量寿経』のどこに出てくるのかというと、下品という所に出てくる。『歎異抄』は下品の自覚の上に成り立つといえる。

観経』は、一女性韋提希が人生の中で揉みに揉まれて悲劇に出合った。主人公が女性というところが面白い。女性とは女性的性格をあらわすものであろう。女性的性格は一番仏法に適しない存在である。反仏教的存在(女人性)である。仏教には何が必要かというと強さである。女人性というのは女性だけでなく男性も持っている。その中心を弱いという。何が弱いかというと、続けるということができない。人に引きずられやすいのである。世間体とか親とかの言うことに引きずられやすく、本当に一つの道を邁進するということができにくい。これが女人性の根本である。

も一つは自己正当化である。自分だけは正しい、相手が悪いと言い張る。自己中心的であっていつも自己弁護する。自分が悪いとは決して思えない。これが女人性の特色である。これが一番仏法に適さない。

その代表である韋提が仏教に入って助かっていくのであるから、『観経』というのは面白い。その韋提が最後に到達するのが念仏である。

韋提は悲劇にぶつかって出発するのである。が、そこでどう言うかというと、「われに思惟を教え、われに正受を教えたまえ」という。私に考え方、受けとめ方を教えて下さいと釈尊にたのむ。考え方(今は阿弥陀仏、弥陀の浄土というものの考え方)を教えて下さいという。私がそれをどう受けとめていったらよいか、その受けとめ方を教えて下さいと頼む。そこには深いはからいがある。はからいとは知性中心で、心は理想主義というか、自己の可能性というものに立っている。

釈尊がこれに応じて説かれるのを定善十三観、散善三観という。定善とは考え方。それには先ず心を落ちつけなさい、そのためには西を向いて太陽が沈んでいく相をしっかり心の中に思い浮かべなさい、というところからはじめられる。また、世間善、小乗善、大乗善が説かれる。

インドという所は私はまだ行ったことはないが、パキスタンに一週間ほどいました。また、インド洋も何度か船で往復した。ものすごく太陽の大きく見えるところですね。大きな夕日がぐーっと沈んでいく。水平線の彼方に沈んでいく。太陽が沈んでいく時には瞑想的な想いを持たざるを得ない。そういうところから始まっている。

そして仏を憶い、菩薩を憶うという教を説く。これを観という。その次に説かれるのが散善という教である。

定善致請(じょうぜんちしょう)散善自開(さんぜんじかい)という。致請とは韋提の請いに応じて説かれたもの。それに対して韋提が頼まないのに釈尊自ら説かれたのを散善自開という。ここに念仏が出てくる。

「念仏には無義をもて義とす」とある。念仏というものをよくよく考えてみると『観無量寿経』の下品という所に出てくる。下品とは、何も善いことをしない、悪いことしかしない人を下品という。ここに念仏が出てくる。

考え方、受けとめ方を教えて下さいという定善致請のところには、やればできる、頑張らなくちゃというけなげな行き方があるけれども、そこにはエリート意識がある。まだまだ自分がわかっていない。そこが問題である。人間の力がわかっていない。

散善の教には、初めにまごころであるかということが出される。次に深い心であるか、そして本当の願いを持っているか、という三つが出される。これを三心という。

『観無量寿経』に念仏が出てくる。その念仏は自己正当化の上に立って教を請うている時には出てこない。この三心の教に遇うて、まごころであるか、まごころであれよ。深い心であるか、深い心であってくれよ。願いを持てよという教に接した時に、人間はガラガラと崩れていく。自分はすぐれた人間、いや中位の人間、多少とも善のできる人間と思っていた者が下品へ転落する。それを転回という。

宗教は、最後は生まれ変わりである。低い所から高い所へだんだん上っていく、これは生まれ変わりではない。エスカレーターで上っていくようなものは連続という。宗教はそうではない。宗教は非連続だ、断絶だ、打ち切れているのだ。私がだんだん高い所に上って仏の世界に到達していくというのが連続。そうではなくて宗教は非連続である。それがわからないのが理想主義。理想主義がいかにして断絶にあうかということを明らかにするのが『観無量寿経』の教である。

散善自開の処に一つの大きな鏡を持たされる。汝まごころであるか、汝まごころであれよ。汝深い心を持っているか、汝深い心であれよ。願いを持てよ。この三心の鏡を持たされた時に、その鏡に自分が写る。そこに自分に対する深い目覚めが出てくる。同時に仏の心を知る。向こうがわかることを法の深信といい、自分がわかることを機の深心という。

前回も申したように、加賀乙彦という人の書物に、あるカトリックの修道女が非常に徳を積んでみんなに優しくしたから、神様がそれをほめて御褒美を下さることになった。修道女は言った。「神様、私の心を見せて下さい」。神様は「それだけは見せられない」と言われる。修道女は「それならもう何もいりません」と言うので、神様はやむを得ず修道女にその心を見せた。ところが彼女は卒倒し気が狂ってしまった。

我々はだんだん立派になり、よくなると思う。が、もし神様が見せて下さったら、即ち本当の正しい鏡を下さったら鏡に映るわが心は、真黒な欲と怒りと腹立ちの心である。驚いて卒倒し気が狂ったというのは実に深刻な話である。しかしいいところを言ってある。

鏡を持たされたところに私の転落がある。これを愚者悪人という。愚かな私、お粗末な私にめざめる。そこに、助けんと思召したちける本願の忝なさよと頂く、それを念仏という。その念仏において、私が善い悪いを考えて判断して念仏するのでもなく、私の思慮分別を積み上げて念仏するのでもなしに、本当に私が私に目がさめて南無阿弥陀仏となる、ところを無義という。はからいから出発して遂にはからいを超えたところに、正しい仏法の道理が成り立っているのである。

はからいについても少し考えてみよう。『口伝鈔』に「善悪二業の事」というのがある。「然るに善機の念仏するをば決定往生と思い、悪人の念仏するをば往生不定と疑う。本願の規模ここに失し自身の悪機たることを知らざるになる」。

善機とは性格的にもすぐれた人で、行い、言葉、生活も素晴しく、本当に仏教に励んでいる人である。善を行ずる人である。それを上品といい中品という。上品とは大乗善ができる人。中品とは小乗善即ち自分の生活を正していく人。また、仏教的なことはやらないが、世間善即ち親子、夫婦関係がしっかりしている人をいう。これらを善を行ずる人という。これを善機という。これらの人の念仏しているのを決定往生と思う。決定往生とは、なる程あの人は信心確かで必ず広い世界に出ておるに違いない、往生は間違いないと思う。

「悪人の念仏するをば往生不定とうたがう」。悪機とは下品である。下品とは善を一つも行わず悪のみというのをいう。往生とは、殻を破って大きい世界に出ることを往生のはじめという。ちょうど卵がひよこになるように、どんぐりが発芽するように、その一歩芽を出していくことを往生の出発点という。それからだんだん伸びていくのである。往生とは大いなる世界へ出発し前進することをいう。従ってそれは死んでから先に起こるのでなしに、生きている我々が往生を開始し出発していくことが大事である。

空中の一個の塵が電気をおびたならば、その周囲に必ず電場ができる。ものが力を持っている世界を場という。浄土とは死んでから先にあるのではない。如来の場を浄土という。太陽があれば昼という世界がある。磁石があれば磁場がある。如来の場を弥陀の浄土という。

磁場の中に置かれた一本の釘。この釘が真赤に錆びていたならば磁場の中に置かれていても動きにくい。もしこの錆が落ちはじめたら磁場の力が直ちにひびいてきて、磁石に引きよせられる。磁石の力は前から働いていたのだけれど、悲しいかな錆があったから届かなかった。それが届きはじめる、それを往生のはじめという。遂に最後にくっついてしまったら磁石になる。これを仏になるという。これは最終的な段階である。今はまだ遠い所にいる。これが往生の段階である。

「善機の念仏するを見ては往生決定と思い、悪機の念仏するを見ては往生不定と疑う」。それをはからいという。人間の発想である。善を行ずる人の念仏は正しく、悪い者の念仏はつまらない。念仏は同じでも、もとがよくなければならん、それを行ずる人が問題であるというのは、人間のはからい、人間の考え、人間の発想である。

「本願の規模ここに失し、自身の悪機たることを知らざるになる」。本願の大きさ、本願の働きがそこで失われている。本願を知らず自己を知らず。それを人間の発想、はからいという。ここが大変わかりにくい所である。

問題を出そう。耳四郎は救われているかどうか。耳四郎は法念上人の御時、平安末期の大泥棒で、ある夜屋敷に忍び込んで夜更けに泥棒を働こうと思って床下にもぐっておった。上で法然上人のお話が始まった。聞くともなしに聞いていると胸打つものがあって、とうとう縁側に出てきてお話を聞いてお弟子になった。大変な進展ぶりでよく念仏申しよくお話を聞いたのであるが、一生の間泥棒だけはやめられなかった。念仏しながら泥棒しておった。但し、後で返したという。この耳四郎は法然上人の教に救われ念仏に救われていたであろうかどうか。

念仏しながら泥棒をしたというのでは、大きな世界に出ているとは言えないと思う。「悪機の念仏するを見ては往生不定と疑う」。救われる筈がないではないかと思う。

耳四郎は七百年前の話ではあるが、この問いは非常に現代性を持っている。あの人は勤行を怠らず念仏し、人に優しく人の為に尽くして一生懸命精進している。あの人の念仏は本物で、あの人こそは本当の菩薩道を歩いていく人と思う。しかしこの人は長く聞いてはいるが、見るからに人相も悪く、やっていることもパッとしない。いつも子供を叱りつけて愚痴ばかり言って、時々念仏して喜んでいる。これじゃ駄目だろうと思う。自分の場合でもこのような私では駄目だろうと思う。私は時には喜ばないわけではないけれども、何となく心もすっきりしないし善いことも行えないし、これでは駄目だろうと思う。これをはからいという。他人事ではない。最後はここで行きづまる。宗教の問題というのは最後はこのはからいというところに問題がある。はからいなしというところに、第一章から第九章までのつづまりがある。親鸞聖人の教を一言で言ったら、はからいなしである。これを無義為義という。口伝鈔で頂くと、そこが非常によく出ている。

はからいとは本願を知らず、「本願の規模ここに失し自身の悪機たることを知らず」ということである。はからいとは、善い心、善い行いができなければ本当の念仏ではない、本当の信心ではない。悪い心即ち腹が立ち嫉妬心が起き冷たい心になる、悪い行いが私に続いている限り私は本物ではない、本当の信心、本当の念仏ではないと思う。これをはからいという。これが最後の問題である。「悪機の念仏するを見ては往生不定と疑う、本願の規模ここに失し、自身の悪機たるを知らざるになる」、これをはからいという。ここではいつも耳四郎をしっかり思い出すがよい。

善い心、善い行いができなければいけない、悪い心悪い行いである限り…というところには自身がわかっていない。そこではからうのである。善い心善い行い、悪い心悪い行い、即ち私の善悪が念仏の意味を左右している。自己が中心になっている。それをはからいという。自己に中心があるのではない。如来に中心がある。如来本願が中心ということがわかっていないのである。

如来の発願は如来の誓願である。人間の発想は善い者は救われ悪い者は救われない。如来の発願は南無阿弥陀仏である。私の善も悪も如来において南無阿弥陀仏である。如来のこころは大悲というのが一番当っている。大悲とは悲しみ呻きである。人間我々が小さな善悪に執われて、厚い厚い殼の中で、これではいけないいけないと言っている姿を如来は大悲して南無阿弥陀仏と叫びたもう。南無は帰れである、善悪に執われ人間の発想で右往左往している者に帰れと呼び続ける。阿弥陀仏は大いなるものわれ。大いなるものわれに帰れ、これを大悲という。南無阿弥陀仏という。これを大悲の本願という。これが如来の誓願である。この如来の願が我々に届いて我々の発願となるところに南無阿弥陀仏がある。この本願が私に届くと、善い心も善い行いも、悪い心も悪い行いも南無阿弥陀仏となる、善も悪も念仏となる。それをはからいなしという。

人間の発想自体がはからいである。人間の心で言うならば、善い方はいいが悪い方は困るのである。ところが如来の発想は善いも悪いも南無阿弥陀仏である。南無阿弥陀仏は如来の大悲である。悲しみであり呻きである。それが本当に私に届いたならば(これを本願成就という)私の善も悪も、耳四郎のような私の心も、怒りも腹立ちも南無阿弥陀仏になる。それをはからいなしという。

はからいを無くしようとするのではない。はからいをなくしようとすれば、そのこと自体がはからいである。血で血を洗うというべきか、はからいを消そうとするところにはからいがある。はからいをなくそうとしてもなくならない。如来の本願にかえる。善いことも悪いこともこれが私の本体、南無阿弥陀仏と念仏する。これをはからいを超えるという。これが成り立つことが聖人の教の一番根本である。これを「ただ念仏」という。はからいをなくすのではない。「ただ念仏」である。これは何も考えないで無我夢中で念仏するのかというとそうではない。自らの実体にめざめ、本願を頂いて念仏する世界をいう。

少しつけ足しになりますが、私が結婚して一年目、昭和二十一年、とても物の無い時代で御馳走などはできなかったが、結婚記念日に私共の先生を夕食にお招きしたことがある。その時先生は、「何事も因縁じゃのう」と感慨深く言われたが、「善い悪いで見たならばどんなよい相手でも夫婦として成り立たない。立派な人とは見えない。念仏していくということが大事だ」と言われた。その時はよく意味がわからなかった。ただ、善い悪いじゃいかんのだなということだけはわかった。先生は、夫婦は善い悪いでなしに、何事も因縁だなあ、本当に因縁によって結ばれている。善い悪いと人間の発想によってはからうのでなく、善いも悪いも南無阿弥陀仏となる。そういうことを結婚の心得として言われたのだと思いますね。今頃になってそう思う。さすがに先生はいい所を言われたなあと思う。我々は善い悪いになる。批判になる。思慮分別を押していく限り結局最後は、悪い妻を貰ったなということになる。善いのを貰ったとはなかなか思いません。そうでなしに仏法を本当に頂いて、善いも悪いも南無阿弥陀仏になるのだ。そこにはじめて念仏生活が成り立つのだということを言われたのであろう。

如来の発想が私の発想となることを念仏という。念仏は善悪で切って捨てない。はからわない。それを無義という。

はからいなしとは、ただ念仏、念仏一つということである。私共の先生は、「何が出てきても念仏する」「あるがままを受取って念仏申す」と言われた。これがはからいなしということであり、無我ということであり、正しい仏法の道理なのである。それを信心という。「あるがままを受け取って念仏申す」。これはまことに名言である。後世に残る言葉だと思う。これを「現実が念仏になる」という。前の言葉に比べると少し難しいが、「現実が念仏になる」これがはからいなしである。現実が善い悪いにならず、私の思慮分別に終わらないで南無阿弥陀仏になる。それをはからいなしという。

『歎異抄』第一章から第九章まではすべて、はからいなしという無義の念仏が出ている。これが成上である。

第九章からいうと、「他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけり」、これがはからいなしである。はからいなしの姿が第一章から九章まで述べられている。第九章は「念仏申しておりますが喜びも意欲もわいてきません、こういうていたらくの私、南無阿弥陀仏」。これをはからいなし、無義という。

第八章は、念仏は非行非善なり。「私の行ずる行にあらず私の善にあらず、南無阿弥陀仏」である。第七章は、念仏者は無碍の一道なり南無阿弥陀仏。第二章は「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし、南無阿弥陀仏」。これをはからいなしという。

第一章は、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なき故に、悪をもおそるべからず弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なき故に、南無阿弥陀仏」。ここにはからいなしということが出ている。このように細かくみると各章共に全部、十章の具体的な相が出ている。それをまとめて「あるがままを受け取って念仏申す」。どのような現実も念仏になる。これを第十章に「念仏には無義をもて義とす」といわれる。

十八章ある中でこの第十章が一番短い文章である。しかしながら非常に大事な意味がある。これが『歎異抄』の一番中心点であり、前半の一章から九章までをここでまとめ、また、十一章から十八章までの後半の起点になっている。

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