はじめに

『歎異抄講読(第十章について)』細川巌師述 より

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私にとってこの短い第十章は、従来は話し辛く苦手な章であったが、最近ようやく少し頂けるようになった。

先ず「念仏には」とは、「念仏においては」である。

無義というのはほかの所には、義なきを義とすという表現が多い。親鸞聖人は、「義と申すことは自力の人のはからいを申すなり」という解釈をしておられる。自力のはからいである。無義とは、はからいのすたった、はからいを超えたことである。

義とは正しいという意味で、義は宜なりという。宜は、どちらがよろしいか、どれが正しいか間違っているかを、あれやこれや考えることをいう。正しい道理ということである。また、議という。皆であれやこれや話し合いをしてどれが正しいかをきめる、これが議である。皆意味がつながっている。これをまたはからいという。はからいとは思慮分別し、これは正しい、あれは正しくないと考えていくこと、これを義という。義は名詞だが動詞では、はからう、思慮分別するとなる。

念仏においては、はからいがないということが義である。このはからいは自力のはからいである。

自力ということについて聖人は『末燈鈔』(21-2)に「自力ともおすことは、行者の各々の縁に随いて、余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わが計の心を以て、身、口、意の乱れ心を繕い、めでとう為なして浄土へ往生せんと思うを自力と申すなり」と言われる。

「わが身をたのみ」とは、自分の能力、自分の働きをたよりにして私の可能性を信じる深い自己肯定の心。「わが計の心をもって」とは、自分の行い、言葉、心のもち方を、悪い所は直し善い所は伸ばすように心がける。「めでとうなして」は立派にする。「浄土へ往生せんと願う心」は、宗教を達成しようとする。これを自力というのだと言っている。浄土へ往生するとは死ぬことではなくて、小さな殼を破って大きな世界に出ることである。

自力とは自分の力と書いてあり、自力更生というから善いことだと思うが、これは聞違い。本当は自力のはからいをいう。それが打ち消されたところ、否定されたところ、超えられたところを無義という。

自力というのを一般的に言えば我である。この我が超えられたところに本当の念仏の世界がある。

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