一、「無義」の義と「義とす」の義

『歎異抄講読(第十章について)』細川巌師述 より

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「義とす」(為義)の義は、無義の義とは意味が違う。これについて聖人は解釈されていない。そこで二つの説がある。

一つは道理(ことわり、わけがら、すじみち)。念仏においては、はからいを超え自力を捨てていくというのが正しい道理である。曾我量深先生はこう言われている。

も一つは石泉(僧叡)という方の説で、あとの義は如来のはからいという。

如来のはからいと言われるのは依り処があって、聖人のお手紙をよく読むと、「如来の御はからいにまかせ候へ」とか「仏と仏との御はからいなり」というようなお言葉からきたものと思う。

念仏においては自力のはからいを捨てて、はからいのない天地に出るのは、如来の御はからいなのであるという意味である。

私はこの二つは同じで一緒にしたのがいいと思う。念仏においては人間の思慮分別をこえて、ただ念仏していくというところに本当の道理があって、それが如来の御はからいなのである。如来の御はからいのほかに本当の道理はない。

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